月別アーカイブ: 2014年5月

話題の「アクト・オブ・キリング」を観てきました。

こんにちは、映像科講師の百瀬です。

皆さんの中でもともと映像表現に興味がある人は、最近の映画の動向も押さえている人が多いかと思うのですが、この映画をご存知ですか?

「アクト・オブ・キリング THE ACT OF KILLING」
http://www.aok-movie.com/

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監督は気鋭のアメリカ人映画監督、ジョシュア・オッペンハイマー。日本では今年の4月12日に公開されたばかりの、今多くの話題を呼んでいる映画です。

「あなたが行った虐殺を、もう一度演じてみませんか?」

これが日本版サイトに掲げられているこの映画のキャッチコピーです。
その文面が示すとおりこの映画は、ジョシュア監督が「かつて虐殺を行使した人々に、自らそれを再演してもらい映画を作ってもらう」という衝撃的なプロジェクトを実施し、その記録を作品化したものです。

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あらすじについて語る前に、ここで「アクト・オブ・キリング」というタイトルに注目してみましょう。「キリング」は「KILLING」なので直訳するとそのまま「殺すことの演技」ですね。
英語が得意な人ならば、このタイトル中の「ACT」という単語の中に二重の意味が含まれていることにすでに気づくと思います。
ひとつは「演技(ふるまい)」という意味の「ACT」。もうひとつは「行為」という意味の「ACT」です。
実際に虐殺を行った者が、今度はそれを演じる者となる。「ほんとう/うそ」という見方で見ると、一見まったく正反対のことのようにも思える「行為/演技」というふたつの動作が、このひとつの単語の中に奇妙にも同居しています。
その事実が実にこの映画の本質を突くものであるということが、見終わった後でわかるのではないかと思います。

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実際にその虐殺が行われたのは1965年のインドネシア。スカルノ大統領(当時)親衛隊の一部によるクーデター未遂事件が起こったのですが、当時の軍部によってその背後組織は共産党だとされ、当時インドネシアに住んでいた華僑を含む100万人規模の共産党支持者が一方的に虐殺されました。当時虐殺を行ったメンバーは、政府からの金で今も悠々自適な暮らしを送っています。

この映画で主にスポットを当てられているのは、インドネシア軍部から依頼を受け、実際にこの虐殺を「実行する」役目を任されていた「ヘルマン」と呼ばれる人々です。
そしてその中で殺戮のリーダー的な役目を果たしていたアンワル・コンゴという初老の男性を中心にこの映画は進行していきます。

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ヘルマンという言葉の語源は「フリー・マン」。彼らがその言葉を口にするとき、そこにあるのは自分たちが行っていること、法律よりも自分たちの自由奔放な価値感が勝っていることに対する「誇り」です。もともとダフ屋行為や買収行為などを行って生計を立てていた彼らの立ち位置というのは、日本でいうところの暴力団組織のようなものにあたります。

つまり私たちがいったん認識しなければならないのは、彼らにはまったくその虐殺に対する罪の意識がなかったということなのです。国の統制を乱した者達を「正義によって」抹殺したということは、彼らの生まれ育った頃から隣り合うギャング的価値観を肯定してくれるものでさえありました。彼らはジョシュア監督の映画製作依頼に対し、「俺たちの勇姿をみんなに知ってもらうんだ!」と嬉々として参加するのです。

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映画の前半部は、積極的に虐殺シーンの撮影に臨むアンワルたちの姿が映されます。
自分たちの演技に対し、真剣なコメントをかけあいながら虐殺シーンの再演の精度を上げていこうとします。「映画にはユーモアも必要」と言い切るアンワルの奇抜なアイデアに、笑いを漏らす映画の参加者たち。このあまりにも軽い「死」の感覚を前にし、観賞者はすでに倫理観のゆらぎと嫌悪感のやりどころのなさの渦の中に取り残されています。

それはこのアンワルの口から紡ぎだされる、あまりにおぞましくも非常にあっけらかんとした言葉が、「自分ももしかしたら、そっち側にいたのかもしれない」と、私たちの日々の生活の中に眠る暴力性について考えさせられる示唆的な言葉に満ちあふれているからかもしれません。

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また、この映画の構造的な面白さとして特筆すべきは、「映画」として撮影されているシーンと「ラフシーン」として撮影されているシーンがごちゃまぜになっていて、何をもって演技とするのか?という定義が最初から最後までかき乱され続けているところでしょう。もちろんこのような構造を持った映画は昔からいくつもあるのですが、前述したとおり「アクト」に込められた意味が最初からここまで強く提示されているゆえに、この構造が強度として強く効いているのだという気がします。

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後半において、演技をするアンワルにある変化が訪れます。

今まで「加害者役」として自らの虐殺行為をなぞってきたアンワルですが、ある瞬間から彼に殺された「被害者役」も演じるようになるのです。

ここの転換はかなりサラッと描かれており、個人的には「えっ?」と思ってしまったのですが、この反転は実はかなり重大なことであるはずです。どう考えても監督にその展開を望む欲望がなければそのようなことにはならないはずで、そこに「ドキュメンタリーのふりをしたフィクション(またはフィクションのふりをしたドキュメンタリー)」作品の重大な本質があると個人的には思っています。

かつて自分が殺戮に使っていた針金を、自ら今度は自分の首に巻き付け、その両端を引っ張られるのを待つアンワル。

彼がそこでどういう表情をしたのかは、是非みなさんに映画館で確かめてほしいと思います。

率直に言ってしまえば、ある意味このラストへ向かう展開はこういったテーマを選ぶ以上、予定調和的な展開とも言えます。
ただ、もしそこにそういう筋書きを描く者がいて、そこにアンワルというひとりの人間(たとえ彼が神に許される人間ではなかったとしても)が取り込まれていったのだと思うと、いちばん残酷なのは誰なのだろうか、それをこうして吐き気をもよおしながらもなぜ私は目を離せずにいるのか、と思ってしまいました。
彼の行ったおぞましき「アクト」もまた、得体の知れぬ何者かによって引き受けさせられた「アクト」だったのでしょうか。それは映画の中の話なのか、映画の外の話なのか。ずっと胃の中に嫌な余韻が残ります。

撮る者と撮られる者との関係、それは、映像を撮る者が一生背負わなければならない業のようなものなのかもしれません。
私には、この映画のテーマが問いているであろうごく一般的な倫理観とは別のところで、またある種の倫理観を問われているような気がしました。
ここ最近で一番胸がむかむかした映画でしたが、あまり語るとネタばれになるのでこのへんで。

是非、映画館で見てください!

百瀬文(映像科講師)

芸大美大をめざす人へ No.151

 

私立美大デザインコース講師の笹本です

ハースト婦人画報社より出版されている『芸大美大をめざす人へ 』、もうご覧になっていただけたでしょうか。

今月号(No.151)の特集は「基礎のデッサン 超レベルアップ術」!!

トップページから新宿美術学院の現役合格者による「手の構成デッサン」と、デザイン科講師による「静物デッサン」のデモンストレーションとその解説が掲載されています。まだ経験が浅い方やこれからもっと上達していきたい方にとっては、合格を目指す上でのよい目標になると思います。

後半のページにも「神の一手」と題して、両手の想定デッサンと東京芸大合格者による石膏デッサンの作品と解説も掲載されていますのでお見逃しなく!!

まだの方は、ぜひお手に取ってご覧になってください。

514ブログ

 

 

 

1学期は中盤へ!

こんにちは。彫刻科の小川原です。ゴールデンウィークが過ぎて、1学期も中盤に向けてテンションを加速させていきたいところです!
さて、前回からこれまでの課題で出た預かり作品を紹介します。

塑像、両手の構成課題です。
K.S君の作品。
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シンメトリーをやや崩した形で、左右の手の平から指先にかけて回転する円や球をイメージさせる構成になっています。とても考えられた組み立てができており、シンプルながら強い魅力を放っています。心棒との境のシュロ縄が見えてしまっているのが見栄えとしてもったいないです。作品として感情移入していたところをちょっとしたことで現実に引き戻されてしまいます。土付けの位置をずらしたり、心棒を工夫することで回避できるので、こうした部分にも一層気を配り、雑味を感じない作品を目指してほしいです。

R.Y君の作品。
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そっと触れる左手に優しさや穏やかさを感じることができる作品です。ただ両手を形として捉えて構成するだけでなく、感覚的なイメージも作品に込めていくというのもまたおもしろさの一つであると言えるでしょう。内容として、手の内側が良くつくられているのですが、手の甲など、起伏の浅い部分になるとやや構造的な強さや密度感に欠ける印象があります。こうした部分でこそ高い説得力をアピールできるので、これからさらに研究を進めてほしいです。

T.U君の作品。
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両手共肘近くまで使いダイナミックに構成しました。大きさの迫力が感じられてよいです。2つ以上のモチーフを構成したときにそれぞれの大きさが似通ってしまうと、要素に欠けて単調な作品になってしまいがちですが、この作品に関しては角度や配置が上手くいっているためそういった粗は見えてきません。大きくは悪くないですが、部分に目をやるとやや皮膚の内側から感じるリアリティーや、つながりの悪さが気になってきます。全ての形に実際の形の魅力が重ねられているか、さらに観察を深め、追求できると良いです。

首無し円盤投げのトルソ像のデッサン。6時間弱での制作です。
T.U君の作品。
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前半やや動きが弱くなっていましたが大分持ち直してきました。頭部が無いので割と進めやすかったと思いますが、6時間弱でここまで描けたら立派なものです。毎回ぱっと見目を引く炭が扱えているので安定して評価を得られていますが、90点のデッサンで満足すること無く、受験においての100点以上のものを見据えて追求を深めてほしいです。ザックリとした見切りは素晴らしいので、完成に到達するまでにもっと沢山の展開を経ることができたらいいと思います(分かることで全てまとめるだけでなく、分からないことを紆余曲折ありながらもどうにかして盛り込んでいくくらいの心構えが必要です)。

さ、4月が終わり、自分の弱点が見えてきた頃だと思います。早いところ克服しちゃいましょう!ただ何となく課題をこなしていてはダメです。皆さんが思っているより求められているものはずっとレベルの高いものだということを胸に刻んで下さい。上手くいかなくて落ち込んでいる暇はないし、悩んで考え込んでいる時間ほどもったいないものはありません!日々最高のパフォーマンスで課題に取り組めるよう、気持ちも体調も万全にしていきましょう!!自分の目標に向かって一直線にダッシュをかけられるやつが結局は一番強いです!

 

GWが明けました。

油絵科の箱岩です。皐月の花も満開のGWも過ぎまして、不安定ながらいい天気が続いていますね。

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?昼間は汗ばむほどになってきて早くも初夏の気配がし始めましたが、皆さんいかがお過ごしですか?

油絵科は各クラス別々のペースで1学期の課題が進められているようです。

私の担当するクラスはオーソドックスに石膏を利用したデッサンの期間中です。週末はフォーンのトルソでした。この像の異常な肉付きは、インドア美術系の子には馴染みの無い大きさらしく、なかなか印象を捉えるのが難しかったようです。

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腕や頭部の欠損により像全体が持つムーブマンが把握し辛いということもあるのかもしれません。

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背後のこの突起も何を意味するのでしょうか?今回のブログは、なんとか全体像をイメージしてもらいたくて、フォーンのトルソについて少し検索してみた話です。

先ずは、ウフィツィ美術館 (フィレンツエ)にあるオリジナルのフォーンのトルソ「踊る牧神:ガッティトルソ」

トルソ

ギリシャ彫刻の完璧な様式美は本当に美しいですが、それにもまして完璧であったものが欠損し崩壊する状態は輪をかけて美しいと思います。

無作為に残された形の美しさ、人工的な物が自然に還るときの輝きは本当に観ていて飽きません。

さて、フォーンの本来の姿はどんな物だったのか?

ギリシャ神話を紐解いてみますと、フォーンまたはパーンは、ギリシア神話に登場するの一柱であるとされています。

アイギパーン古代ギリシャ語: Α?γίπαν, Aigipān, 「山羊のパーン」の意)とも呼ばれ、ローマ神話におけるファウヌスFaunus)と同一視されるとなっています。 このファウヌスが語源になりFaun(フォーン)と呼ばれているようです。長母音を省略して英語風にパンとも表記されます。また意訳して牧神、牧羊神、半獣神とも呼ばれるようです。

皆さんは、映画「ナルニア国物語」をご覧になったことがありますか?

先日、子供と観ていますと気になる人物が・・・・

narunia

劇中の、心優しく少々勇気の足りない山羊の半身を持つ彼こそが、牧神ファウヌスなんです。

さて、フォーンの正体が見えて来たところで、検索にヒットした画像を観ていきましょう。

?Jean-Baptiste Greuze

こちらはジャン=バティスト・グルーズ(Jean-Baptiste Greuze, 1725年 – 1805年)彼は、フランスの画家で市民生活に題材を求めた風俗画を多く描いていました。当時は絶大な人気を誇っていたようですが、その後18世紀の忘れられた画家として低い評価を受けています。この半神半獣の男の素描を観る限り、とても力のある作家だったようです。

Jacob Jordaens2

Jacob_Jordaens_-_Pan_and_Syrinx

この2作品はヤーコブ・ヨルダーンス(Jacob Jordaens、1593年 – 1678年)によって描かれました。少々年老いて荒々しい様子の牧神ですね。ヨルダーンスはフランドルバロック期の画家です。ルーベンスヴァン・ダイク同様、アントウェルペン派を代表する画家です。ヨルダーンスは画家アダム・ファン・ノールトに8年間師事し、後に芸術家ギルドの聖ルカ組合の一員となり、画家として揺るぎない地位を築くと、ルーベンスと同様に、祭壇画、神話画、寓話画を描き、1640年のルーベンスの死後、アントウェルペン最重要の画家となったとされています。

 

続いてはピーテル・パウル・ルーベンス: Peter Paul Rubens1577年1640年)は、バロック期フランドル画家外交官祭壇画肖像画風景画、神話画や寓意画も含む歴史画など、様々なジャンルの絵画作品を残しました。

Rubens, Faun und Maedchen

ルーベンスはアントウェルペンで大規模な工房を経営し、生み出された作品はヨーロッパ中の貴族階級や収集家間でも高く評価されていました。この作品では上半身が中心に描かれていて分かりにくいですが、筋骨たくましい男の不敵な笑みがフォーンの気性を表しています。

??ルーブル博物館

こちらは《牧神パン》ルーヴル美術館、パリ

?おしり、フォーン

こちらは出典が不明なアート画像。映画のワンシーンの様ですが、気になります。

お尻の毛が薄くデザインされた特殊メイク。尻尾の感じが面白いですね。あっ、これがフォーンのトルソの腰のところにある突起ですね。

皆さん、全身像が想像できてきましたか?

?さて、『牧神』というだけあって、彼の仕事は家畜の世話であります。

自慢の笛を吹きつつ、ヤギや羊、牛などの家畜の世話をしているパン。同時に、狩人に獲物を与える神でもあり、豊穣の神としての性質も兼ね備えていたのです。

下半身は毛むくじゃらの山羊、頭にも山羊の角(のような突起)、おまけに顎には長い山羊鬚を生やした、かなり粗野な容姿の異形の半獣神、彼のこの奇怪な姿は生まれつきのものでした。と言うのも、伝令神ヘルメスが山中で羊を飼っていた際、土地の王の娘を見初めて、山羊の姿で接近し口説き落として身ごもらせました。

乳母は産まれ落ちた赤ん坊の姿に仰天し、悲鳴を上げて逃げてしまったといいます。

なんと、フォーンはヘルメスの子供!!

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性格は父ヘルメスに似て陽気な子で、大喜びのヘルメスは、パンを獣毛皮にくるんでオリュンポスへと連れて行き、我が子の誕生を披露しました。

その変ちくりんな姿はすべての神々、特に酒神ディオニュソスを大いに喜ばせ、「すべての」を意味するパンという名がつけられたのだそうです。

パンはアルカディアの山中に棲まい、彼を拒んだニンフ(妖精)シュリンクスが姿を変えた葦で作った笙笛を手挟み、同じく彼を拒んだピュティスが姿を変えた松で編んだ冠をかぶった格好で、山野を逍遥してはニンフたちにちょっかいを出す。

しばしばディオニュソスにも付き従って、淫蕩な性豪ぶりを発揮し、あらゆるマイナス(狂乱したディオニュソス信女)たちと交わったとされます。なにしろ、ヤギ(ヤギは多産の象徴)ですからね。

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 明るく朗らかで快活な反面、気性が荒く、気難し屋。特に寝起きが悪く、岩陰で昼寝をしているところをうっかり起こそうものなら、不機嫌になるどころではない。

突如、不相応に激怒して、山々を轟かす雄叫びを上げ、これを聞く者、大抵は羊飼いたちや羊たちを恐慌に陥れた。この“パニック”という現象は、実はパンの名に由来するそうなんです。

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さて、フォーンの容姿やキャラクターは見えてきましたか?皆さんが目にする多くの石膏像がギリシャ神話の神々を模しています。ギリシャ神話は登場する神々の関係や巻き起こる事件がとても人間的で不完全なキャラクター像が設定されていて、知れば知る程面白くなります。

こういう不必要に脱線した所にある情報が、案外自分のこだわりを生むことがあります。

こだわりは表現のモチベーションを高くしてくれるカンフル剤のような物です。

是非皆さんも、好奇心を旺盛にして日々の制作に打ち込んでみてください。

先端芸術表現科とは

新学期も始まって1ヶ月が経ちました。

1学期の間は、みなさんには様々なエクササイズをしてもらっています。
というのも、新美に来るまで自ら作品を作ったことの無い人も多くいるからです。
どのような人が先端科を目指すのか?
「先端科って何をする科なの?」
「いろいろな表現を学べるの?」
「卒業制作の展示を観に行ったけど、作品を観てもよくわからないけれど、なんだか面白そう。」
など、これまで作品を作ったことがないけれど、直感的に面白そうだなと興味を持ってくる人。
「わたしは小さい頃から絵を描くのが得意でした。しかし、大学ではもっと違うメディアも使い表現の可能性を広げたい。」
「わたしは現代美術を観ることが好きで、○○というアーティストに興味があります。」
といった、制作することや作品を鑑賞することが、好きなひとも来ます。
または、もっと具体的に、
「わたしは、これこれこういう作品を作っています。このようなことを続けていくことで先端科に入れますか?」
「今の時代、こういう活動が必要だと思っています。」
など、自分のやりたいことが明快な人もごく稀にいます。
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生徒作品(パフォーマンス)
ではいったい東京芸大の先端科とはどのような学科なのでしょうか
インターネット環境に慣れ親しんだみなさんは既にされていると思いますが、念のためお伝えします。
やはり、まず最初にやることは、
芸大先端芸術表現科のホームページ(HP)を見ることです。
東京芸術大学のHPと、先端芸術表現科が管理しているHPとふたつあるので両方見て下さい。
1)東京芸術大学のHP内の先端科→
ここでは、先端科の理念が書かれています。
芸術の持つ意味そのものを「表現の問題」として問いかけます。
?
先端科の「先端」という意味について、よく聞かれるのですが、
上記の理念からすると「Intermedia Art」と「先端科」を定義しているので、こちらの方が何を意図して作られた科なのか理解できます。
?
また、年間カリキュラムも公開されているので、大学でどのような授業が行われているのか一通り目を通しておくと、何をする科なのかイメージが掴めると思います。
2)先端芸術科公式HP→
ホームページでは、
学内のイベント、現在活躍している卒業生、先端科の教授陣が紹介されています。
イベントは、常に何かしら行っているので、観に行くことをお勧めします。
HPで調べることは、
1、どのような理念のもとに作られた科なのか?
2、卒業生はどのような活動をしているのか?
3、教授はどのような方達なのか?
4、大学の授業内容は?
3の教授に関しては、HP内では詳しく紹介されていないので、教授の名前でインターネット上で検索すると、多くの情報を得ることができるので調べてみてください。
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生徒作品(教室に設置されてあるエアコンに、人型に切り抜いたビニールを展示)
では、新宿美術学院の先端科ではどのように芸大先端科を解釈しているのか?
芸大先端科である理念「芸術の持つ意味そのものを「表現の問題」として問いかけます。」という難解な問に対し、
まず最初にやってみる導入の問いとして、
自分で作品というのものを定義してみる。
だと思います。
これはとても難しいことで、すぐにはできるものではありません。
しかし、その都度、「自分なりに作品とはこういうものである。」と定義してみることが重要だと思います。
間違えても良いのです、その都度更新していけば良いだけなので。
何を言いたいかといいますと。
先端芸術表現科で作られた作品というものは、世の中一般としては「現代美術」または「現代アート」と呼ばれているものが想定されていると思います。
しかし、それも先端科の問いである「芸術の持つ意味そのものを「表現の問題」として問いかけます。という射程の一部にすぎません。
おそらく、もっと広い意味で表現活動または作品というものを捉えようとしているのではないでしょうか?
「作る」または「創る」「想像」する。など生産的なイメージが美術やアートにはあります。
また「アート」とは「技術」という意味もあります。
または「発見」「見出す」など新たに価値を見出すことも、表現の中には含まれています。
ただ作るだけではなく、社会や物、自然を観察することから、多くのことに気づくことも、制作に含まれます。
絵画にしろ、造形にしろ、既にあるものの模倣からはじまっているといっても良いくらいです
と考えると、
「10年後の生活環境を想像する。」
「今の社会がどのような経緯で出来たのか?日本や世界の歴史を遡ることで、今やるべきことを考える。」
「日々ニュースを見ていても、山ほどの難題と直面しています。それらとどのように向き合うのか?」
物の形について考えるのであっても、人体は毎日の食事によって体型も変わりますし、環境によっても左右されます。
スポーツ選手の体型とオフィースワークをしている人の体型はまったく異なります。
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生徒作品(布にペイントされた顔:布の重みによって描かれた表情が弛む)
話はかなり飛躍しましたが、「作品を作る」ということを考えた時に、どうしても大文字の「作品」「美術」「アート」っぽいものを想定してしまいます。
しかし、世の中を見渡せば、あらゆる物が造形され、デザインされ、様々なひとの工夫によって成り立っています。
そのときに自分にとって創造的な行為、技術は何なのか?また作品とは何なのか?問いを起こすことから始まると思います。
いや、もしかすると本末転倒かもしれません、世の中を見渡し、自分が何を発見し、驚き、自分もその中に参加してみたいと思うのか?
手探りで、世界と直面していくことが、問いであり、制作活動なのかもしれません。