彫刻科の小川原です。今回は僕の大先輩である、新美から芸大に入学し、卒業後は様々な講師業に携わりながら作家活動をされている根岸さんに話を伺いました。予備校時代の取り組みから、芸大での制作について、講師業についての思い、自らの制作感、作品へのこだわり。色々なことが聞けました。今まさに美大受験のために頑張っている人や、これから美大受験をしようと考えている人に対してとても参考になる内容だと思います。どうぞ御覧ください。
Q.彫刻を学ぼうと思った理由は何ですか?
実家の両親がジュエリーメイキングの教室を経営していて、そのせいか子供の頃からものを作るのが好きだったことが発端でしょうか。日本画、工芸、彫刻と一時は迷いましたが、具体的に彫刻という分野を選んだのは、「あなたは大きなものを作りなさいよ」との母の一言で、個人で出来る一番大きな造形物を作れると思えた彫刻を選びました。 父は建築科出身のジュエリー作家なので、大きな造形物ということで建築なども少し考えましたが、一人の手で先端から末端まで血の通った造形物を作りたいという趣旨から考えると、彫刻が一番沿っていたと思います。
Q.予備校時代の話を聞かせて下さい。どのような日々の過ごし方をし、どのような努力をしましたか?また、楽しかった事、辛かった事はどんなことがありましたか?
辛かったことはあまりありませんが、しいて言えば ”日曜以外は二時間の学科勉強をする”と決めて、少なくはありますが 欠かさず行なったことでしょうか。 日々の過ごし方は工夫しました。 いくつか自分でルールを決めたのですが、そのなかの一つに”毎日必ず予備校に通うこと”がありました。(新宿美術学院でした。) 結果として、試験とその発表日以外は一日も予備校は休みませんでした。 他には食事以外の時にはテレビは見ないで、日々の”趣味”は絵を描くことと決めて 落書きの延長でリアルなものやイラスト的なものも織り交ぜて色々な題材(主に人物)を、毎日3時間くらいは描くようにしていました。 また、週一?二回でヌードクロッキー会に参加していました。予備校でも開設してましたし、近所の画廊でも日曜に開設してたので遊びの延長で描きに行きました。 勉強は嫌いな分野だったのでそれに関してはある程度努力したと言っても良いかも知れません。ですが実技に関しては ”楽しんで人一倍数をこなすにはどうすれば良いか”ばかりを考えていたので、それに関する一連の行為を努力と言うのは 自分では何か違う気がします。 私の状況的に一年しか浪人は許されなかったことと、高校時代は厳しい部活(空手道部)に在籍していたので、大好きな美術の勉強ばかりを許された一年は楽しく充実してました。
Q.芸大を目指すに当たって何か特別な思いはありましたか?
高校時代はあまり実際の状況を知らなかったので、芸大に行くには神懸かったデッサン力が必要という変な噂を真に受けて 余計な勘違いをしていましたし、まわりもそのような認識の人が多かったため、自分が行けるとは思っていませんでした。 ただ美術作家になりたい意識だけは生意気にも強かったので、どこの大学に進学したとしても作家として生き残るぞ、という気概はありました。 私は美術専攻のある高校出身でしたが、当時の担当の先生に「根岸は浪人しても芸大には受からないから、今のうちに勉強して武蔵美に入れ。」と言われて、その発言に対して見返したい気持ちが芽生えたので、あわよくば芸大に受かりたいと思って浪人時に奮起したのを覚えています。ちなみにその当時の先生が酷い方かと言うとそうでもなく、真面目に私の将来を心配した上でそのように言われていた様子なので、むしろ余計にショックを受けました。 ただし その一言が自分を奮い立たせてくれたものだったので、今では感謝しています。
Q.当時の芸大入試は今と違って相当倍率が高かったですが、それに対して受験時にどんな思いがありましたか?
芸大だけでなく、すべての美大の倍率が比較的高かったので、芸大にこだわりすぎないように気をつけていました。どこに入っても作家を目指し頑張ることだけは決めていて、受かった中で一番行きたい大学に行こうと考えていました。 むしろ現役時代にすべての大学が不合格だったので、前年度に結果の出なかった多摩美大、武蔵美大、東京造形大はすべて受かろうと目標を定めていたのです。 芸大に対してはあわよくばという意識が強く、芸大に受かる実技勉強と私立美大に受かる学科勉強を一年かけて充実させて、あとは天命を待つといった心境でした。
Q.大学ではどのような生活をしていましたか?アルバイトなどはしていたでしょうか。また、心がけていたことなどありましたか?
大学時代、授業は実技も学科も真面目に参加していました。教職関係の授業も履修していました。 心掛けていたことは大学の設備を出来る限り利用して学ぶことで、非常に有意義な大学生活を過ごしていたと思います。 主に金属造形を学んでいたので、個人では所有しづらい高価な設備を存分に使用出来たのは幸せでした。 他には空手道部に入り、週三日の稽古と春夏に一週間の厳しい合宿に参加していました。 アルバイトは通常は平常週一と、長い休みの期間は連日と、遺跡の発掘及び復元の仕事をしていました。
Q.大学での作品に対する悩みや、それを解決するに至った経緯を教えて下さい。
作品を考えるにはデザインセンスが必要と思っていたのですが、自分はその能力が足らないと悩んでいた時期があります。 足り無い脳みそから一生懸命絞り出すような行為を続けてました。 ただ、とある時に自然にある造形物(生物、無機物、景色など)を自分なりに変化や合成、または抽出させてデザインをすればいくらでも面白い形を生み出せる、ということに気が付いてからはあまり悩まなくなりました。 悩み出したら、必ず色々な物を見たり、何かヒントは無いか探しに出かけたりしましたね。
Q.卒業後、大学院に進まれました。大学院に進学して良かったと思う事はどんなことがありましたか?また、芸大で学んで良かったと思うことも聞かせて下さい。 大学の学部四年間ではようやく作品まがいの物が二点出来たに過ぎず、「自分の作品」として昇華したものは生み出せなかったので、せめてあと二年は勉強をする必要があると痛感しました。 また大学院中、当時の担当教授の作品制作を手伝う機会があり、それが本当に勉強になりました。 芸大で学べて良かったことは、まわりの皆のモチベーションが高かったことと、芸大に対するコンプレックスを抱かなくて済んだことでしょうか。 美術大学や芸術大学をうたっている大学はどこも素晴らしい特色があり、設備も 一長一短はありますが 美術を学ぶにはいずれも充分な環境です。 ですが、どうしても受験時の倍率の難易度で自分を卑下したり 逆に優越感にひたったりする部分も人によっては無いとは言い難いところがあります。 私の場合、それまで自分より優れた人ばかりに出会ってきたので驕る気持ちを持つことは さして無かったと思いますが、もし芸大以外に行っていたら 芸大進学者に対し妬みを感じてしまっていたかも知れません。(もちろんそういった気持ちをバネにして成長する場合もありますが、当時の自分は愚かな方向に行きかねなかったと思います。) それが無く済んだことが幸運でした。
Q.卒業後、就職するか、作家活動をしていくか悩みましたか?卒業後は講師の仕事を複数兼任しつつ、作家活動をされていますが、その道を選んだ理由を聞かせて下さい。
作家活動すること自体は子供の頃からの目標で、就職して常勤業務についてしまうとその活動に支障をきたすと思ったため、迷いませんでした。 大学の研究生として残りながら、文化女子大学(現在の文化学園大学)の非常勤講師を行うことが出来たのも 本当に幸運でした。 新宿美術学院の基礎科講師もすでに行いながらのスタートだったのでほぼ悩まず、作家兼美術講師となることになりました。 それについては当時それぞれの仕事を紹介して頂いた方々のおかげだと思っています。 また、講師をしながら作家業というのは僕に向いていたかも知れません。 私自身は出し惜しみせずに技法や考え方を教えますし、教えた生徒からも荒削りながらも新たな感性での制作を見せて貰うことが出来、非常に良い刺激を受けています。 専業美術作家を目指すことも視野に入れてましたが、一度作品を作りだすとこだわりが強くなり、採算に合わない制作ばかりになってしまうので 日々の糧を得るためには、今のところ兼業作家で助かっている事も多いと思います 。
ヒイラギ-Leiognathus nchalis
Carllion Dragon
Prickly Leaf(M)
Crown
Face
Q.仕事として講師という立場を選んだ理由は何ですか?
私にとって作家業は夢や目標と言うべき職業で、それのみで食べれない分の経済活動として、渡りに船という感覚で講師を始めました。 と言っても選ぶというより、自然に話を持ちかけられたケースばかりだったので 本当に運が良かったと思います。それらの巡り合わせ全てに感謝しています。
Q.大学、高校、予備校など、これまで様々な講師を受け持って来られましたが、講師の仕事の面白さ、難しさなどについて聞かせて下さい。
高校は初めて出会う具体的な技法をキラキラとした目で吸収していく姿、予備校は甘えを捨て目標を叶えるために自分を見つめ直し地力を養うことにひたすら向かう真摯な姿、大学では個人の自由な発想と経験からくる持ち合わせによって無限の表現を模索していく姿を、目の当たりに出来ることが非常に面白いです。 講師として難しいことは、なんでも自分で教えたくなってしまうこと。自分のやってきた道をそのまま教えたくなってしまいますが、その教えによって伸びる部分もありますが、もともと生徒が持っている伸びしろを潰してしまうかも知れないところも多々あります。 高校では美術が楽しくなるように、つとめて明るく接し、予備校では時に嫌われても構わないからその生徒が合格に近付くような指導を心がけます。 大学では教師であるが自分もまた一研究者であるという立場として、出来る限りフラットに接するようにしています。
Q.講師職と作家としての活動の相性は実際経験してみてどんな実感がありますか?
作家個人やその人の作風にもよりますが、わりと相性は悪くないと思います。教える立場にあることで自分の技術も更新していくこともメリットであると思います。 ただ、講師職は常勤であれば責任も増すため、また、非常勤であればそれほど多い時間数を割り当てて頂くことは難しく いくつかの学校を掛け持ちすることも多いため、制作時間がそこまで多くは取れないことが問題としてあげられます。 極力バランス良くスケジュールを組む必要があります。
Q.講師として仕事をし、作家として制作活動をする。このスタイルを目指す学生は多いと思います。アドバイスがあればお願いします。
制作は自分の個性を大事にするべきですが、指導に関しても生徒一人一人の個性を同様に尊重してあげて欲しいです。 そのため自分の嗜好だけで判断するのでは無く、好みでは無い作風であれ その良し悪しを考えられるよう心掛ける必要があります。 また人に教えられる存在で居続けるため、自分自身に厳しさを持ち 自分の造形を研究し続けるよう頑張っていって欲しいです。 自分も力足らずではありますが常にそうありたいと思っています。
Q.作家としての側面について聞かせて下さい。作品のコンセプトはどのようなものですか?
私は作品にいくつか違うコンセプトを持たせてそれぞれシリーズとして制作をしています。 「生命の循環」、「五感に訴えるコミュニケーションツール」、「ジュエリーやテーブルウェア、室内、室外のデザインオブジェクト」、「宇宙や無重力環境で求められる芸術とは何か」…などがあります。 共通したデザインコンセプトとしては”有機と無機の融合”が常に頭の片隅にあり、自然に生まれたものの形を自分というフィルターを通して再構成していくという行為に思索を重ねています。
音の鳴るベンチ(三鷹の森ジブリ美術館)
水飲み台(三鷹の森ジブリ美術館)
「宇宙楽器」無重力演奏
Q.芸大を卒業後、作品に対する考え方は時と共に少しずつ変わっていると思いますが、どんな変化がありましたか?またこれからの展望について聞かせて下さい。
Winged clocktower(総合芸術高校)
SAKURA object(ステラ☆ミラ行徳)
左からfiower,eleven leaves,seven leaves
大学時代や大学を出てすぐの頃は個人的な欲求に基づく、言うなれば自慰行為に近い制作をしていました。 現在もそれに似た心持ちはありますが、人の貴重な時間を私の作品を見ることで奪ってしまったり、世の中の空間を一部占有してしまったりするわけだから、せめてそれに見合ったの価値のある造形を目指そうと強く思うようになりました。 こんな自分の我儘を続けて良いのだろうかと迷い 悩んだ時期もあります。 ですが現段階では何度考えても自分の存在意義は物をつくる(作る、造る、創る)ことにしか見出せないとの結論にどうしても至ってしまうので、せめて少しでも見る人がその価値を感じてくれるような作品をつくるように最大限の力を発揮していきたいと思っています。
Q.最後に、これから彫刻を学ぼうと思っている学生にアドバイスをお願いします。
“何かを生み出すこと”は自分がここにいたんだと多くの人に訴えることが出来る行為です。 それこそ他の作業と比べて自分の想いをまるごと作品といった形に置き換えることも可能な行為です。 そのなかでも彫刻は人と同じ次元(三次元物理空間)に自らの手でその想い(温かみ、叫び、怒り、哀しみ、楽しみ、喜び)に姿を与えることが出来る分野です。 誰しもが合うわけではありませんが、そういった行為を楽しいと思えるのであれば、資質があるように見えますので、我こそはと思う方はぜひともチャレンジしてみて下さい。 「無価値を作るか感動を作るか。」 ある意味ギャンブルとも言えますが、その行為に私もぞっこん惚れ込んでしまっているのです。 私はすでに足先から頭までどっぷり浸かっておりますが、ご興味のある方は片足先でも浸してみてはいかがでしょうか? 皆様の未来が輝かしいものとなりますよう心からお祈り申し上げます。 この度は色々と申し上げる機会を頂きましたこと、そしてまたそれをご覧頂きましたこと、深く御礼申し上げます。 誠に有難うございました。
根岸 創 So Negishi 1973 東京都に生まれる 1996 東京芸術大学美術学部彫刻科卒業 1998 東京芸術大学大学院美術研究科修士課程彫刻専攻修了 1999 東京芸術大学大学院美術研究科研究生修了 個展 1999 ・「 根岸 創 展 」/ ギャラリー4GATS 〈クワトロガッツ〉(東京) 2002 ・「 A Day of Bright Night 」/ Pepper’s Gallery (東京) 2002 ・「 G ・ I ・ S 2001 企画賞展 」/ ギャラリーイセヨシ (東京) 2005 ・「 F i o l e 」/ギャラリー52 (東京) グループ展 , アートイベント 2004 ・「 KINZOKU 東京芸術大学彫刻科金属室に学んだ作家たちvol.1 」 / 天王洲アイル セントラルタワー1F アートフォール (東京) 2005 ・アートイベント「 K O 」(展示及びパフォーマンス) / タキナミグラスファクトリー (東京) ・「宙(そら)へ+ – 50年 ペンシルロケット50周年」/ JAXA宇宙科学研本部 相模原キャンパス」 (神奈川) 2007 ・コラボレートイベント「 Fiole One Love 」/ テレビ朝日多目的スペースumu (東京) 2009 ・「 ART FAIR 2009 」 / テレビ朝日多目的スペースumu(東京) 2015 ・「ロケット交流会2015」/ 日本科学未来館(東京) ・他 10回程参加 設置 , 依頼制作 2001 ・「 鳴る 水飲み台 」 ,「 鳴る 椅子 」(2台) 常設 / 三鷹の森ジブリ美術館(東京) 2005 ・「 レクサスカップ2005 トロフィー 」金属部制作 / レクサスカップ2005 :トヨタ自動車ブランド「 レクサス 」主催の女子プロゴルファー対抗戦に使用(シンガポールにて開催) 2012 ・「 翼のある時計台 」常設 / 東京都立総合芸術高等学校 (東京) 2015 ・ペット合祀墓モニュメント「 SAKURA monument 」常設 / ステラ☆ミラ行徳 (千葉) その他 2001 ・「日韓現代美術交流展in埼玉」出品 / 埼玉県立近代美術館(埼玉) 2004 ・「 第7回 大分アジア彫刻展 」 〔 あさじ賞 〕受賞 / 朝倉文夫記念館(大分) 2005 ・「 第三回 航空機による学生無重力実験コンテスト 」実施案選考に通過 団体C.S.A. ( コンフィレンス オブ スペースアート )のメンバーとして共同制作「サウンド・ウェーブ・ スカルプチュアー3」の微少重力実験を実施 (主催 JAXA及びダイヤモンドエアサービス) 2006 ・「 宇宙楽器 」試作品及び実験器具を制作 落下実験により微少重量下における「宇宙楽器」(試作) の音声と映像を撮影(協力 小野綾子 氏〔当時C.S.A.代表〕)/ E S A ( 欧州宇宙機関 ) 2012 ・「 宇宙楽器 」(「 Space Musical Instruments [ Ellipsoid Bell ]&[ Fractal Bell ]」)制作 国際宇宙ステーション( I S S ) 「 き ぼ う 」日本実験棟利用 文化・人文社会科学利用パイロットミッション 公募に通過 , 小野綾子氏(当時 東北大学大学院博士課程在籍)と共同研究 J A X A(つくば 茨城) 及び I S S に提出 ダニエル・バーバンク宇宙飛行士(NASA)によりその演奏と撮影を実施 2014 ・「ミッション[宇宙×芸術]コスモロジーを越えて」: 「き ぼ う」日本実験棟利用 文化・人文社会科学利 用パイロットミッション「宇宙楽器」無重力演奏映像及び制作者インタビュー映像を公開( J A X A制作による) / 東京都現代美術館(東京)