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いよいよ新学期のスタートですね。

昨年のコロナ禍の混乱が1年経過しても今の状況というのは、流石に想像をこえていましたが、個々で対策することが浸透してきていますので、もう少しの辛抱かと思います。

感染し被害を受けた方には心からお見舞い申し上げます。
さて、渋谷校は、今年も元気よくスタートを切ります。
春期講習会の賑わいを継続していけたら良いなと思って準備してます。
油絵科は明日から木炭デッサンの集中トレーニングの期間に入ります。
去年はコロナ禍の影響によりオンラインで出来ることからスタートし、基礎デッサンを夏期講習で補う予定でしたが、各高校のスケジュールがまちまちで、足並みを揃えて描くことができないまま入試に向かっていく事になりました。
結果的に生徒の皆さん大変苦しんでいたのではないかと思います。
基礎的な能力の向上は短時間で結果を迫られる美大受験においては欠かすことのできないものであります。
それは確かですが、アーティストを目指す上で、木炭デッサンを修得することや、石膏デッサンを極める事が全く重要ではないという事は、現代美術をかじっていれば必ず耳にする台詞です。
確かに多様なスタイルの絵画表現がある21世紀。人それぞれに自分に合わせたデッサンやドローイングがあって当然なのです。
スポーツに置き換えて考えるなら、レスリングをするのに持久走型の体型に絞っても不都合だし、長距離走る人が100kgもの筋肉を身につけたら到底走れません。
ですから、美術界でまことしやかに語られる、描写を極めてから表現に展開するべきという指導は、時代錯誤も甚だしい間違いであると私は断言します。
そんな事は無い!と異論を唱える前に美術史的根拠を探してみてくださいね。
私がこれまで調べてきた美術史の中では、根拠は何処にも見当たりませんでした。
私はほぼ、西洋美術的アカデミズムを誤認したまま真に受けて日本に持ち帰った、明治の絵描き(名前は伏せさせてもらうが)が自己保身のために執拗に日本美術界に落とした呪いだと考えています。
かれこれ100年以上前のデマだと言っても良いでしょう。信じている人には大変申し訳ないのですが、現代美術の観点から言わせてもらえば、対話する価値すらない、コンテクスト無視の戯言であります。
さて、ヒートアップし過ぎた感がありますが、どうぞ受け流して下さい。

さて、それでも受験絵画において木炭デッサンが必要な競技として大学受験において残っている以上、何かそこから学ばなければ勿体ないとも思うのです。
私はデッサンを指導するとき、作者の眼差しというものをいつも求めています。
人は誰でも唯一無二の時間軸の中に誰とも違う角度から物事に向き合って生きています。
自身の右眼の経験する視界と、左眼の経験する視界すらもズレがあるのです。
他人と同じ経験は絶対に存在しません。
その唯一無二の眼は、果たして何を見つめ、何を感じているのか?
どんな経験や思想に基づいてそれを表そうとするのか?
それらを表す手段として音楽や文学や映像はとても有効であると考えています。
なかでも映像化は、絵を描いたり写真に収める事で、その人の見た世界を他者が擬似体験し、共感する事が出来るかもしれないのです。
その視界の再現性や、観察した道程を感性や感情に左右されながらリアリティを追求して描かれるものがデッサンだと私は思います。
その事に触れながら、扱いにくい木炭などという原始的な素材と戯れること。そこに初心者が最初に時間を割く事はとても重要なのだとおもいます。
旧石器時代の人類は生活に密接な動物の姿を大量に壁面になぞっています。
彼らは命がけで見つめる動物の肢体を記憶で描き留め、その肉肉しい胴体の膨らみを、まるで皮を剥ぐ動作のように鋭く線で切り裂いて表しました。
その原始の営みに通じる、高揚とした空間概念や、対象を絵画空間に封入するような呪術的感覚が、木炭デッサンには確かにあると思っています。
あなたにとって見ることと描くことがどういうものか。私達と一緒に探していきませんか?

その答えではないにしろ、受験生の皆さんが何か参考にできるならという事で、これまで渋谷校油絵科のTwitterに掲載してきたデッサンをご紹介してみようと思います。