こんにちは。工芸の松井です。


こんにちは。工芸の松井です。
こんにちは。油絵科の関口です。
前回は僕が高校生の時、初めて上京してきた頃のお話でした。今回はその続きになります。
春期講習会でお世話になった某有名予備校に生意気にも物足りなさを感じた僕は、いつしか「もっとレベルの高いところで勉強してみたい」と思う様になっていました。
インターネットも携帯電話も無いその時代、ウチの田舎では美術系入試の情報など殆んど無かった。と言っても過言ではありません。
そこでの唯一の情報が、美術室に置いてある、ちょっと古い美術系の雑誌と、美術部の先輩が取り寄せた数々の予備校パンフレットでした。
先輩が受験するという事で、美術の先生が取り寄せたと思われる雑誌の中に「芸大・美大をめざす人へ」というものが数冊置いてありました。
芸大・美大をめざす人へNo.5(アトリエ出版社・1986年)
学校にナンバーは全て揃っておらず、No.2とNo.4は置いてありませんでした。確か当時の最新号がNo.5で、そこに載っている作品を見た時「うぉ?。何だこれは!すげ?上手い」と身体に衝撃が走ったことは今でも鮮明に覚えています。
この芸大・美大をめざす人へNo.5は「新宿美術学院」が全面的に協力していると書かれています。他のナンバーには全く目もくれず、毎日そのNo.5を目を皿のようにして見るようになりました。「どうやって描いたんだろう?」「ここの人達はこんな凄い人達ばっかりなんだろうか?」「浪人生ってどんな人達なんだろう?」日に日に想像は膨らみ、僕の中で新宿美術学院という存在は、神々や聖人の棲む「聖地」の様なイメージにまで勝手に高められて行ったのです(笑)。
ところで、先輩の取り寄せたパンフレットの中にも新美のものがありました。他の予備校よりも一回り大きいサイズのパンフレットで、表紙を見るとミケランジェロのシスティーナ礼拝堂の壁画(修復前)の一部が使われていました。厳かな雰囲気のある、その絵を見た僕の中では、勝手にドンドン聖地化が進んでいきました(笑)。
ミケランジェロ作・システィーナ礼拝堂天井画(修復前の画像)
いつか自分も憧れのサンクチュアリへ…みたいな、まるで巡礼者の様な気持ちになっていましたが、いざ夏の講習会を決めようという時には、何故か聖地「新宿美術学院」は候補に入っていません。アトリエという雑誌の白黒広告ページに小さく載っていた、今は存在すらしていない超マイナーな研究所を選んでいました。
ある日、夏期講習の事を父親に相談すると「自分は美術の事は分からないけど、ここが良い所だとは全く思わない。住所も東京じゃないし、折角勉強するなら、もっとちゃんとした所が良いんじゃないか?」とハッキリ言われました。「お金の事なら心配しなくて良いから、お前が本当に一番行ってみたいところを言ってみなさい」と言われ、無意識に遠慮していた事も指摘されました。
「じゃあ、ここに行ってみたい」
そこで選んだのが、新宿美術学院だったのです。
ごめんなさい。中々新美に辿り着きませんが(笑)今日もここでお終いです。
ー続くー
こんにちは。油絵科の関口です。
皆さんは何かのキッカケで、今迄と違う世界の扉が開いた…そんな経験はありませんか?
先月に引き続き、美術の道を目指し本格的に絵の勉強を始めた、10代後半の僕のお話です。
はじめの一歩(前回のお話)
http://www.art-shinbi.com/blog/20150112/
ルネ・マグリット作「毒」1939年
高校1年の冬頃、僕は両親に「絵の道に進みたいので美大に行きたい」と伝えました。母親は案の定大反対。父親には反対はされませんでしたが、そっちの道で食べていけるのか?と本気で心配されました。絵の世界とは全く別のところで生きてきた両親にとって、さぞかし不安を抱いた事でしょう。
父親は僕が小さい時から「手に職を持ちなさい。他の人に出来ないことをやりなさい」と事ある毎に言っていた人なので、さすがに反対は出来なかったんだと思います。ただ、まさか息子が絵の道に進むとは思っていなかった事でしょう(笑)。
とにかく反対する母親を説得し「一度で良いから東京の予備校に行って絵の勉強をさせて欲しい」とお願いしました。
・・・暫く経ってから母親は渋々東京に行く事を認めてくれました。父親と相談し「一回行ってみて現実を見れば諦めて帰ってくるだろう」という狙いがあった様です。
僕が一番最初に講習会を受けたのは2年生になる春で、実は新美ではありませんでした。全国から色んな人達が集まって来ていましたが、「僕の高校の先輩の方が上手い」と思い、生意気にも物足りなく感じていました。
一人で東京に出るのは初めてだったので、電車に乗るのも一苦労。切符を買う時に入場券も必要だと思い込んで2枚の切符を購入し、入場しようとして駅員さんに止められました(笑)。当時は自動改札やSuicaなども無く、駅員さんが手で切符にハサミを入れて入場するスタイルでした。そう言えばその時はまだJRという名前でもなく、国鉄でしたね。
画材屋さんでは初めて見るものばかりで、やっぱり東京は違うな?と思ったものです。(ウチの田舎の画材屋さんは当時高校近くの一件のみで、今のトゥールズさんの4倍くらいのスペースですが、品揃えは1/10以下だと思って下さい。文房具屋に毛が生えた位のレベルでした)
携帯やインターネットというものも存在せず、見るものは全て新鮮でした。
講習会を終え実家に帰って、諦めるだろうと思っていた親の当ては外れ「これなら僕はやっていける」と確信(という名の勘違いを)していました。
両親との「一度だけ…」という約束を半ば強引に破り、「物足りなかったので、今度は違うところでもう一度勉強しに行きたい」と我儘な主張をしました。何日も話し合った結果、両親はとうとうギブアップ。
その年の夏、世界の扉はそこで開く事になるのです。
ー続くー
こんにちは。油絵科の関口です。
先週に引き続き、クイズです。今週のは一人の作家(一つの作品の部分)で、難易度はかなり高いと思います。
では早速いってみましょう。
レベル5
レベル4
ヒント
・1879年生まれ
・父は音楽教師。母も音楽学校で声楽を学ぶ。
レベル3
ヒント
・スイス生まれ。
・35歳の時にチュニジアへ旅行に行き、そこでの体験から色彩に目覚める。
レベル1(全体像)Fish Magic 1925年制作
答え
パウル・クレー
2014新美 通信教育 最後の 12月ターム課題作品添削返送致しました。
センター試験も終わり、いよいよ?各大学、各科入試が始まります。
高3・受験生で地元で制作を続けている方、
新美にて入試直前講座から試験まで制作する方、
通信教育スタッフ一同、応援しています。
これから始める高1・高2の方、
2014新美 通信教育 3学期生募集中です。
詳しくは、こちらをご覧下さい。