日別アーカイブ: 2015年9月4日

オスカー・ニーマイヤー

こんにちは。建築科講師の半田です。

私がまだ受験生だった頃、建築とは一体何なんだ、という怒りのようなものが胸の中にありました。 「記号的すぎる」「生っぽい」「かなしい」という、意味の分からない講評をされても、「そうか、失敗だったなあ」とすぐに納得できるものではありません。厳しい先生であったことは確かですが、なぜ自分の生み出したこの作品が建築空間として魅力的になりえないのか、疑問ばかりの日々でした。

 

時間が経ち、建築に明け暮れる日々を過ごしているうちに、不思議とそれらの講評が何を意味していたのか分かるようになりました。 建築は、すこしずつ理解を深めて行くものなのでしょう。すこし分かったと思えばまた分からない領域が現れて、完全にすべてを把握することなどできません。

ひとつには、建築と時代は切り離せない関係にあるからです。時代が更新されていく以上、建築の何たるかも更新されて行くのです。まるで生き物のように。

 

そもそも、理解するという意味の「分かる」という単語は、一体何を分けているのでしょうか。 これは哲学者の鷲田清一が投げかける疑問ですが、改めて考えてみると不思議な単語です。何を分かったのか。何をディバイドしたのか。 分別という言葉があります。物事が持つ意味やコンテクストを、自分の経験上のファイルにカテゴライズし(分けて)、しきりを作って(別にして)その現象を把握することです。「分別がある」というのは、物わかりの良い人を形容したりします。

物事のもつ由来や履歴や所在を、その意味区分で分けることによって、我々は物事を理解し、「分かった」と言うのではないでしょうか。

 

こう考えると、はっとします。 建築を考える上では、建築以外の分野に興味を持つことがとても重要です。社会や経済や文化や歴史やスポーツや食やアートやデザイン。人と環境。建築はそれらすべてと密接な関係にあります。それらに頸を突っ込まなければ生み出せないデザインがあります。

何とも分けることが出来ない建築なのですから、分かるわけはないのです。

 

しかしもちろん、冒頭で示唆したとおり、すこしずつ分かる領域というのは増えて行きます。 私はたくさんの先人達から、知恵をもらってきました。その一人、ブラジルの英雄建築家、曲線美の巨匠、オスカーニーマイヤーの展示が現在東京都現代美術館で行われています。

 

 

2 SA/NIEMEYER 67035987279://www.mot-art-museum.jp/exhibition/oscar-niemeyer.html

私は建築に思い悩んでいた受験生のときに、ニーマイヤーの作品を知りました。その哲学や理想を知って、その光の美しさを知って、建築物を周辺環境に同化させるのではなく、異物として挿入することによる調和の方法があることを知って、

そしてそれらが自分のどこかのファイルにすとんと分けられたとき、建築への理解がすこし深まった記憶があります。

 

受験生のみなさん、たくさん知って、たくさん考えて、たくさん挑戦してください。