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横浜トリエンナーレ

こんにちは、油絵科 松田です。

8月1日から開催されている横浜トリエンナーレ、行かれた方も多いのではないでしょうか。
2001年から始まり、3年に一度開催されるこの展覧会も今年で5回目、毎回楽しませてもらってます。
初回にも行きましたが14年前とは、、、時の経つのは早いですね。

何度目の展覧会かは忘れましたが、作品の一部を鑑賞者が持ち帰って良い作品(野外彫刻作品)があり、夢中で気に入る形のパーツを見つけて持ち帰った記憶があります。
その時は会期後半だったので、持ち帰られたパーツが多く、作品はほぼ崩壊していましたが、崩れかかった作品の雰囲気は、またそれで良い形をしていました。
そのパーツはいまだに持っていますが、作者の記憶や経験を共有しているかのような不思議な感じです。

作品の紹介としてここに写真を貼ろうかと思いましたが、これから行かれる初見の感動を奪いかねないので、やめました。  会期が終了してまた紹介する機会があれば、その時は少し写真を載せるかもしれません。

展覧会場はいくつかに分かれていて、かなり広い範囲で展示が行われていますが、入場券があれば無料で何度でも乗れる周回バスも出ています。
普段の製作の合間、アトリエを出てのんびり散歩しながら行ってみてください。
この展覧会は鑑賞者参加型の作品が多いので、友達を誘い、あーだこーだ意見を交わしながら行くのも面白いと思います。
11月3日までの開催期間なので、もう少しで終わってしまいますが、まだの方は是非!
● 油絵科の公開コンクールの時期も迫ってます。
11月2~3(日、月祝)が 油彩
11月9日(日)が 素描
となっています、気兼ねなく参加してみてください。 是非お待ちしております。

自分を計るもの。

油絵科の箱岩です。

台風一過で暑くなるどころか、かえって寒くなっていますね。関東は11月並みの寒さだそうです。受験生の皆さん、風邪などひかぬ様に着るものには注意してくださいね。

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さて、今日は我が家の全力思春期少女の悩みについて、少しお話ししたいと思います。

 

私は「才能」という言葉に対して、もの凄くアレルギーがあります。

どういう事かと申しますと、

「この子は才能が無い。」などと子供を計る先生がいます。

それは、その子に合う指導をするスキルが貴方に無いだけでは?と思います。

「好きなだけでは努力しても無駄です。」という先生がいらっしゃいます。

時間がかかっても、成果が出るまで努力したらどうなんでしょう?

「能力的に絶対無理です、趣味にとどめておいたらいかがでしょう?」なんて無難な事をいう先生がいらっしゃいます。

人類の歴史は、「無理じゃない」という強い思い込みと、弱点を補うアイディアによって作られて来ている事を否定するのですか?

世間で「才能」という言葉を使うとき、殆どの場合が逃げの理由になっていると思うのです。子供が夢を見て努力しようというときに、自分の能力やスキルを棚上げして「才能」のせいにするのは、古ぼけた権威主義の選民思想がなせる技だと思うのです。それは、自分には指導の才能が無いと宣言するようなものです。

子供達には、やりたい事をやる自由があり、頑張りたいだけ頑張る自由がある。人の能力には必ず親譲りの差があるでしょう。それは、人類の遺伝子を多様化させる生物学的な働きによる物で、優・劣どちらの個性が優位でもない。鈍感、無気力、持続性が無い子だって、その子の能力を最大限に生かしてあげれば人類初の素晴らしい業績を残すかもしれないという事です。だって偉人の多くが子供の時代は武勇伝になる程に酷いもんです(笑)

勿論、諦める自由だって保証されているのだから、疲れたらやめれば良いのだと思います。そこに「俺は才能が無い」なんて負惜しみはナンセンスだと思うんです。

つまり、何が言いたいかって?

 

一部の才能ある人間しか芸術表現はできないとしたら、それを理解できる人もごく一部の才能をお持ちの人しかいないという事になってしまいます。そんな芸術は無意味です。

芸術とは、もう一段階レベルの高い思想活動です。そこには究極や至高なんて了見の狭い基準は無く、「多様性の謳歌」が存在しています。

ですから、「才能」に縛られる事無く、各自の能力を究極的に伸ばして、多様である事を謳歌すれば良いのです。努力の仕方そのものを自分に合うよう工夫すべきなのです。

本人が好きで好きで、どうしても好きで仕方ない事を、本人が諦めてもいないのに、他の誰かにやめさせたり、諦めさせたりする権限は無いという事です。

それをなんとかしてあげようと思うのが親心です。

たとえ夢破れても、傷つく事から得るもののほうが多い。

だからこそ、全力になれる状況をつくり、そのサポートをするのが、指導者にもとめる事であると思うのです。

 

 

つい、興奮して、親馬鹿ぶりを披露してしまいました。すみません。。。

とにかく、みなさんも、自分を信じて夢中になってみて下さい。

きっと得るものは多いと思いますよ。ではまた。。

故郷に流れる遺伝子

こんにちは。油絵科の関口です。
今週も台風が直撃ですね。2週連続で来るのはちょっと勘弁してもらいたいものです。

 

さて、今日はこの作品から見てもらおうと思います。作者が誰か分かりますか?
ヒント:この作者はエコール・ド・パリの画家で、イタリア人です。?15歳のデッサン
これは自画像という事なんですが、顔立ちには まだあどけなさが残っています。彼がこれを描いたのは何と15歳!日本だと中学3年か高校1年の年齢ですね。しかもデッサンを勉強し始めたのが14歳の頃とか。こんなのを描き始めて1年目の子に描かれたら、周りの人は嫌になってしまいますよね?

さて、僕がこの作品を見て特に感心するのは、顔の描写力はさることながら、この身体の表現の素晴らしさです。客観的な観察力というのは、訓練である程度何とかなるものだと思っていますが、この省略の仕方やタッチの使い方は観察だけではどうにもならないものです。よくぞここで筆を止めたものだと思います。完全に脱帽です。作者は素晴らしい感性を持った子供だったんですね。

さあ、勿体ぶってしまいましたが、そろそろ答えを言いましょう。
この作品の作者は夭折の画家、モディリアーニ(1884?1920年)です。ありゃ、デッサンにサインが入っていたのでバレバレでしたね(笑)。

 

さてモディリアーニというと、目の青いこんなタイプの絵を思い浮かべる人が多いと思います。モディリアーニらしい作品

以前モディリアーニの作品を見ていると「誰かの作品に似ているな?」と漠然と思っていました。最初は誰の作品に似ているか、ハッキリと分からなかったのですが、ある時ピンと来ました。
タマゴ型の頭に流線形にデフォルメされたその身体・・・僕が結びつけたのは、前回このブログでも取り上げたボッティチェルリでした。

類似作品
どうですか?作風はかなり違いますが、横に比べると結構近い感じがしませんか?

 

ところで、僕が新美の講師を始めた頃、海老澤先生がボッティチェルリの図版を出してきて「ボッティチェルリの作品は、目の高さが段違いになってるのが多いんだけど、身体全体で見ると全く違和感を感じさせないんだよね。身体の動きに合わせて高さを変えてあるから、目の高さを合わせると、逆に凄く変になっちゃうんだよね」と教えてくれました。

ヴィーナス顔1
実際よく見てみると、かなり段違いになっているんですが、言われてみるまで全く気付きませんでした。恐らく皆さんも今まで気になった人は殆んどいないんじゃないでしょうか?
当時はパソコンなど無い時代でしたので、海老澤先生はハサミで図版を切り抜いて試したものと思われます。確かに顔だけでよ?く見ると変な気もしますが、絵全体で見ると全く違和感を感じません。

段違いの目
段違いコレクション(ボッティチェルリ編)
※前回のブログで「ボッティチェルリの作品は殆んど日本に来ない」と書きましたが、一番右の絵は東京都美術館で12月14日まで見ることができます。次に日本に来るのはいつになるか分かりませんので、興味のある方は是非見に行って下さい。ちなみにこの作品はカンバスにテンペラで描かれています。
http://www.tobikan.jp/exhibition/h26_uffizi.html

 

さて、もう一度モディリアーニの話に戻りましょう。どうですか、この段違い!ボッティチェルリに負けず劣らず、かなりずらしていますね。

段違いの目
段違いコレクション(モディリアーニ編)
気が付かなかった人も多いと思いますが、実は上の帽子をかぶった絵も、よく見るとかなりの段違いっぷりです。段違いに気付かなかった人は、もう一度スクロールして確認してみて下さい。

 

モディリアーニはイタリア人として生まれて、フランスで活躍した画家ですが、遥か故郷の画家を尊敬し、時空を超えてその遺伝子を受け継いだ…と考えると、ちょっと面白いと思いませんか?

御嶽山

油絵科 松田です。

やっと過ごしやすい季節になってきましたが、私の頭からは夏の暑さの記憶がなかなか出て行ってくれません。

夏期講習も終わり、二学期が始まるまでの休みの間に予定していた登山に出かけました。
私はよく山登りをするのですが、昨日の御嶽山噴火のニュースに衝撃をうけ、用意していたブログの記事を上げる気になれませんでした。

この場をお借りしてしまうことをお詫び致します事と、いまだ尚、捜索活動に尽力されている方々や被害に遭われている方々のご無事と、亡くなられた方々のご冥福を心よりお祈り申し上げます。