日別アーカイブ: 2014年11月7日

映像科:高野文子の漫画はなぜ本のかたちをしているのか

 

こんにちは、映像科講師の百瀬文です。
今回は受験のプレッシャーで日々疲弊している皆さんのせめてもの息抜きになればと思い、漫画家・高野文子のことについて書いてみようと思います。
すでに2002年の『ユリイカ』では大々的な高野文子特集が組まれており、何をいまさら感はあるのですが、自分なりにちょっと「ここがそそる!」というポイントをつらつらと書き連ねてみようと思います。というのも先日、高野文子の12年ぶりの新刊『ドミトリーともきんす』が発売されたからなんですね。

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私もようやくこのあいだ立川のオリオンパピルスに走り込んで手に入れてきました。
(余談ではありますが、今年は大島弓子も新刊を出し、池田理代子先生に至っては40年ぶりに『ベルばら』の最新巻を出すという漫画界にとってはとんでもない年であります)
1980年代初頭に「漫画界のニューウェーブ」として注目を浴び、デビュー30年で単行本6冊という寡作なスタイルにもかかわらず以前として根強い支持を誇る高野文子ですが、高校生である皆さんにとっては、もしかしたら初めて知ったという人も多いのかもしれません。しかし「高野文子なる遺伝子」を積極的に取り込み更新を続けている漫画家は少なからず存在しており、高野文子作品を知らなくてもそういった作品とおそらく一度は皆さんも出会っているのではないかと思います。ぱっと一番に思いつくのは、今月刊アフタヌーンで『宝石の国』を連載している市川春子などでしょうか。
今回私は「高野文子の漫画はなぜ本のかたちをしているのか」という、一見当たり前やんけというようなタイトルをつけました。おそらく、漫画が漫画として目に飛び込んでくる前に、まず必ず「本の形態をしている」という純然たる事実に対して、ここまで独自のこだわりを持って向かい合っている作家は高野文子以外にいないのではないかと思います。
しかしいったんここではその話は置いておいて、私がいちおう映像科で教えている人間ということもあり、映画と漫画の関係性について考えていくことにしましょう。

1. 映画/漫画の文法

フェデリコ・フェリーニをして「いつも考えていたのは漫画のことだった」と言わしめたように、映画と漫画の間には切っても切れない関係がいくつもあります。
たとえば映画ならカット、漫画ならコマ割りになるわけですが、どちらも異なる時間軸をつなぎ合わせて、連続して見たときにさも「かつてそこにそのような時間が流れていた」ことをあらわすことが出来るというような点です。

たとえばここに、《顔を上げた女性の顔》の映像/コマがあったとしましょう。
そして次の瞬間に、《朝焼け空に浮かぶ飛行機》の映像/コマがあったとします。

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あなたは今、この女性が飛行機を見つめていたと、そんな想像をしませんでしたか?

実際のところ、その朝焼け空が本当に彼女が見上げていた空だったのか、私たちには確かめることはできません。
それは別に1年後とかの、彼女と何の関係もない場所の朝焼け空でもいいわけです。実際上の2枚の画像も、それぞれ別のフリー素材サイトから私が適当に拾ってきた画像です。
私たちはそのような「時間軸がある慣習に沿って縫い合わせられたもの」を見ると、まるでそれがはじめからひとつのタイムラインであったかのように錯覚してしまいます。この慣習こそが映像/漫画を読むための文法なのであり、私たちは幼い頃から「そう見るように」無意識の訓練をしてきたのです。
私たちがこの仕組みを意識しながら映画や漫画を見るという事はなかなかありません。映画をいちいちカットとカットのつながりとして認識していたら、とても物語に没入できないからです。
ですが、「漫画の読み方がわからない」という人はたまにいます。うちの母親がまさしくそうで、どうやら単純な4コマ漫画なら読めるらしいのですが、最初はまったく言ってる意味がわかりませんでした。これも同じく訓練の問題です。彼らには漫画というものがどのように見えているのだろう、コラージュされた絵のように見えているのだろうか?などとその都度いつも考えさせられます。
映画においてモンタージュという技法が確立され、カットとカットのつなぎが意図的な意味を付与するものとして認識されてからもう何十年も経ちます。
まだまったくそんなことが知られていない時代、偶然誰かがフィルム同士をいじってつなげてみた瞬間、人々はそこにいったいどんな光景を見つけたのでしょう。

高野文子の漫画にはっとさせられるのは、すでにそのような「文法を掌握したはずの私たち」が、まるでその文法に支配される以前の状態に放り出されたかのような気持ちになるからではないか、と私は最近考えています。
歌人の穂村弘も「週刊文春」10月16日号の中で、ほぼ似たようなことを言っています。

「高野文子の作品を読む時はいつも緊張する。『漫画を読む』という行為そのものの見直しを迫られるからだ」

なるほど、それは漫画を手に取りながら同時に「漫画を読んでいる自分」というものを強く意識させられるような、そんな感覚と言ってもいいかもしれません。今からその体験を具体的に追いかけてみましょう。

2. 私もまた本を読んでいる

高野文子作品の特徴として、よく作中に「本を読んでいる人」「空想している人」が出てきます。
それを最も強い形でモチーフとして前面に押し出しているのが、『黄色い本』(2002)という作品です。

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北の地方の田舎で暮らす女子高生・ミチコは、ある日学校の図書室でロジェ・マルタン・デュ・ガールの『チボー家の人々』を借り、家や学校でそれをゆっくりと読み進めながら、やがて登場人物であるジャック・チボーの姿に自分を重ねていきます。
ひとりで本を読むときのあの没入感というものは誰でも経験があるかと思いますが、この作品では終始「いかにして没入状態を表象するか」ということが様々なやりかたで描き出されています。
たとえば上のページの下段のコマの表現などです。本を読むには「音読」と「黙読」のふたつの方法があるわけなのですが、ミチコは黙読で本の中のジャックの台詞を読んでいます。それにも関わらず、本来静寂が訪れているはずのシーンには破裂した吹き出しが描かれ、まるでその空間にミチコの声が大きく鳴り響いているかのように描かれています。
同時にこの声はジャックの声でもあり、ミチコが空間─もしくはミチコの頭蓋骨の中─に響きわたるその声に集中して耳を傾けているかのようにも見えます。
しかしふと立ち戻って考えてみると、私たちが本を黙読するとき、その文字たちはどのように頭の中に届くのでしょうか。おそらく、私たちもこの上段のコマに「描かれた」ページ上の文字をミチコと一緒に追いながら、頭の中で何者か(≒自分)の声で再生されるのを聞いているのではないでしょうか。

3. ゆらぐ「読者」の立ち位置

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引き続き『黄色い本』を見ていきます。ミチコはある晩テレビで放送していたフランス映画を偶然目にし、その俳優の姿をジャックのイメージに重ねます。
この時からミチコの生活空間の中に空想上の存在としてのジャックが地続きに現れるようになるのですが、この1ページ目下段部のコマにある初登場時のジャックの「何をしているの」という台詞が、まるでさっきまでミチコが観ていた映画がまだ続いているかのように白い字幕であらわされているのがとても印象的です。
この瞬間、すでに私たちは「ジャックと話すミチコを見ている」のではなく、今自分がまさしく手にとっているこの本を通して「ジャックと見つめ合っている」ことに気づきます。
一気に物語の当事者にされることで、逆説的に「さっきまで自分は安全な『読者』という特権的な場所にいたのだ」という事実が、急に目を覚まされた身体の感覚とともに立ち上がってきます。穂村弘の言うところの緊張感とは、この物語が一瞬ほどける感じに通ずるのではないでしょうか。
さっき紹介したような映画的な文法にそのまま乗っ取って見るならば、このシーンはそのままミチコが自身の目で見た視界として安心して眺めていられるはずなのです。
しかし、私たちはすでにこの「映画字幕」という表象すら、日常生活の中で映画におけるひとつの「文法」として学習してしまっている。
このコマはまさしく私たちに馴染み深い「画面」そのものとして私たちの前に立ち現れます。

次のページでは、ミチコが机の上でクリップで止めたページを愛おしそうにめくっているコマの上にジャックの「クリップがとめてあるのはなぜ」という台詞が映画字幕でかぶさっています。
普段、映画における俳優たちは、自分たちが映像内に存在しながら同時に自分たちの上にかぶさる字幕のことを意識することはできません。
つまりこの光景をミチコ本人が見ることはできないのです。しかし彼女はその自分が存在している空間を頭の中で思い描くことはできます。
このコマは、まるでミチコが空想の中で自分自身を映画の登場人物に仕立て上げているようにも見えますし、とても面白い構造を持っている画面といえます。そこでは絶え間なく視線を浴びせかける私たち(観客)の存在をミチコ自身が意識しながら、仄かなナルシシズムをたたえて画面の中に存在しているようにも見えます。

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『黄色い本』というタイトルは、この作品のモチーフである『チボー家の人々』の実際に流通していたハードカバー本がまさに黄色い表紙だったことに由来します。
そうなると、この『黄色い本』という漫画そのものがまた同時に「黄色い本」であるということの意味がより鮮烈に浮かび上がってくるのではないかと思います。
そうです、私たちもまた、ミチコと同じように「黄色い本」を読んでいるのです。

4.いつの時代も問い直されること

ちなみに、このような「本自身が、自らが本であることを自覚している」漫画というもの自体は、べつに新しいものではありません。
これはヴィデオアートなどの世界にも言えることかと思いますが、まだメディアが内部で細分化しきらない黎明期の方が「そのメディアにしか出来ないことってなんだろう?」ということを考えることが多いのです。
下にあげたのは1960年の大友朗の『日の丸くん』という作品です。
(当時『日の丸』という名前の児童雑誌があったのでした)

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ここでは漫画というものそもそもが黒いインクで印刷された「紙」であるということが、ユーモラスに描き出されています。作中で王様の後ろにスクリーンのようにかざされた白い紙は、同時に私たちがこの瞬間見て触っている「紙のページ」そのものでもあるのです。
ここでもまた「本自身が、自らが本であることを自覚している」という構造が生まれています。
ここで、せっかくなので先ほどちらっと触れた同年代の黎明期のビデオアートをご紹介しましょう。

これは、日本で『日の丸くん』が掲載されたのとほぼ同時期の60年代に、ナム・ジュン・パイクという作家が制作した『Zen For Film』(1962)という作品です。白い画面に何やらチラチラと黒くまたたくものがありますが、これは何も写っていない空白のフィルムに付着した細かな埃を映しているのです。
1960年代の西ドイツを筆頭に、世界各地でフルクサスという様々なジャンルにまたがった前衛芸術運動が巻き起こりました。この作品はその中で制作された『フルクサス・フィルム』という複数存在する映画アンソロジーの中におさめられた映像作品です。このアンソロジーに参加した作家は映画監督ではなくほとんどがアーティストであり、彼らは前述してきたような「映画の文法」からいかにして逃れるかということを様々なアプローチで実践していました。

また、その10年後の70年代には、パフォーマンスアーティストたちが自らの身体を積極的に映像の中に取り込みはじめます。これは、ヴィト・アコンチという作家の『Centers』(1971)という作品です。

画面の中央(Center)に向って、アコンチ自身が指を指しています。この場合、一見私たちがアコンチに指を指されているように見えるのですが、撮影現場でカメラと向かい合っているアコンチは、まるで鏡に向って自分自身を指差しているような状態とも言えるわけです。
ここまでスマートフォンにおける「自撮り」という行為が普及した現代においては、この作品もまた当時とは違った受け止められ方をするのではないでしょうか。

以上にあげたナム・ジュン・パイクの作品にも、ヴィト・アコンチの作品にも、『日の丸くん』と同じく「映像自身が、自らが映像であることを自覚している」という構造が生まれています。
高野文子の作品が新鮮なのは、毎回軽やかなタッチで情緒的な情景が描き出されているにもかかわらず、同時にこのようなメディア黎明期の原始的な「見ること/読むこと」に対する問題意識をひそやかに内包しているからかもしれません。

5.おわりに

それでは、冒頭に紹介した今回の新刊、『ドミトリーともきんす』について最後に少し触れておきましょう。
この本は実在の四人の科学者の著作をめぐる、これもまた「本の中で本を描く」話です。
この下宿屋「ドミトリーともきんす」に住んでいるのはまだ学生の姿をしている朝永振一郎、牧野富太郎、中谷宇吉郎、湯川秀樹の4人。語り部でありこの下宿屋の主人である「とも子さん」を通して、読者は彼らの言葉の断片に触れていきます。
科学の本であるということを意識し、作者が「あえて気持ちを込めないような線を描くけいこをした」と言うように、人物はいつもと雰囲気の違う均一な製図ペンで描かれ、全体的に静謐な印象を与えます。

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私が中でも好きなのはプロローグのこのシーンです。
なぜこのコマにはっとさせられたのかというと、

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この瞬間、手に持っていたページがまさしくこうなっていたからなのでした。

さて、延々とここまで高野文子の魅力を自分なりに書き連ねてきましたが、いかがだったでしょうか。
漫画というメディアに関わらず、なにかを作ることという上で重要なヒントになるようなことだったり、あるいは先人たちが長いこと積み重ねてきたような考えの系譜であったり、なにか皆さんがこれから先考えるきっかけのようなものを見つけてもらえたのならば幸いです。
是非書店で見つけたら、勉強の合間に読んでみてください。
それではまた!

百瀬文(映像科)

 

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画像:
『黄色い本』高野文子/2002/講談社
『ドミトリーともきんす』高野文子/2014/中央公論新社
『日の丸くん』大友朗/1960/サン出版