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映像科:二学期後半?冬期講習会のお知らせ

こんにちは、映像科の森田です。AO入試や推薦入試の季節も過ぎ、気づけば師走。いよいよ一般入試に向けてスパートをかける季節になりました。映像科の2学期の授業は今週末が最後になります。そんなわけで今回は冬期講習の内容をお伝えしておきます!

■前期【EA】12/15~12/20 私立美大映像 志望校別対策コース *時間に注意
武蔵野美大映像学科、東京造形大映像系専攻、日芸映画・写真・放送学科などの実技・小論文対策など、6日間×3時間で制作と講評を繰り返してレベルアップを目指すコースです。この前期は授業時間が17時~20時なので、高校生でまだ授業がある期間の人も受講しやすいコースになっています。初日に面接をした上で、特に苦手な試験科目を集中的に制作することも可能です。

■中期【EB】12/22~12/29 私立美大映像総合コース
前期と同様に映像系の各学科・専攻を対象とした総合コースです。<制作~個別講評~リメイク~全体講評>の1日8時間授業は相当にハードですが、その分自分の作品とじっくり向き合うことができます。映像系の試験では絵にしても文章にしても、入試までにどれだけ多くのシーンを作品化したかということが自分の武器になります。もちろん本番のテーマに沿った作品であることは必須ですが、構図や文章の構成は過去の課題のアイディアを活かせる場合もあります。

■後期【EC】1/3~1/6 武蔵野美大映像特訓コース
武蔵野美大映像学科の実技試験「感覚テスト」と「小論文/鉛筆デッサン(どちらか選択)」に特化したコースです。感覚テスト対策では特に画面のレイアウトと文章の構成を中心に、小論文対策はモチーフの捉え方を、デッサン対策では今までの過去問の傾向を踏まえて、それぞれ指定の時間でどう仕上げるかについて、解説を加えつつ制作をします。小論文とデッサンの日には、ここ数年の恒例となっている、武蔵野美大の国語に役立つ【評論文読解・ミニ講座】もやります。

*昨年もほぼ同じ内容をこのブログに書きましたが、特に武蔵美映像学科や日芸は学科の点数が合否を左右します。今年は武蔵美の試験が例年よりもやや早く、センター試験が明けると約2週間半で試験になります。実技もそうですが、学科についても早めにスパートをかけましょう。目標は学科で8割!!

映像科:映像と新しい技術について

こんにちは、映像科の森田です。秋も深まり推薦入試真っ只中の今日この頃ですが、今回は入試とは全然違った話題です。ちょうど今週幕張メッセで開催されていた、映像や音響機材の新製品の展示会『Inter BEE 2014』というものに行く機会があったので、そのレポートを兼ねて、最近の映像メディアの技術的な面について紹介してみようと思います。

ちなみに普段映像科の授業の中では「映像作品を作る上で、機材はそんなに重要じゃない(安価な機材でも発想次第で面白い作品は作れるよ)」と言っています。確かにそういう面はありつつも、映像というジャンルの場合、新しい技術の開発やスペックの向上によってこれまで表現できなかったことが表現できる、という部分があることも事実です。というわけで、展示会の中でいくつか気になった事柄を挙げてみます。

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*ちなみに会場はこういった感じ。この広さのフロアが他にもあり、更に展示や講演用のホールなどもあります。映像や音響の機材やソフトを作っているメーカーだけではなく、テレビ局などもブースを出しています。

まず多くのブースで展示されていたのは4Kや8Kでの高解像度の映像です。最近では「4K」という言葉を聞くことも珍しくなくなりましたが、「4K」とは「HD(いわゆるフルハイビジョン、これが「2K」とされています)」の縦・横2倍のサイズの解像度を持った映像の規格です。

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これからテレビ放送やネットでの映像視聴の環境もどんどん4K化していくにつれて、業務用だけでなく民生機(一般の人が普通に買える機材)でもこうした高解像度の映像を目にすることが増えそうです。というか現時点で、一部のスマートフォンでは4Kのムービーを撮影することも可能だったり、家電量販店には4Kのテレビが売られていたり、youtubeにも4Kで再生できる映像がアップされていたりすることから考えると、4Kはもう既に一般的になりつつあるとも言えます。

ちなみにテレビ放送では2020年には4Kの更に倍の「8K」での視聴が予定されているそうです。4Kでも充分きれいなのに8K!と驚いてしまいますが、この展示会では実際に8Kの映像もモニタで展示されてました。8Kともなると単純に「画質がきれいな映像」という感想よりも、解像度が高すぎてちょっと酔いそうなほどです。

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こちらは1.2億ピクセルの動画の展示です。フルハイビジョンの約60倍の高解像度、と言われても正直ピンときません。こういった高解像度の映像の場合、あらかじめトリミングする(切り出す)ことを想定しているそうです。つまり、拡大してもしっかりピントが合っているから、とりあえず撮影の段階では風景の全体を写しておいて、後で編集のときに必要な部分だけを使おう、という発想で撮影するようになるということのようです。そうなるとこれまでのようにカメラを構えて「構図を決める」という概念がそもそもなくなるのかも…?というのは大げさですが、撮影の仕方は変わってくるかもしれません。
 
 
 
 
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この大きな機械は35ミリフィルム、つまりかつての映画のフィルムをデジタルデータとしてスキャンするための機材だそうです。今や映画館でもほとんどがデジタルプロジェクターによる上映となっていますが、そんな中でフィルムをデジタルでアーカイヴしておくことで、古い映画を私たちが目にする機会も増えるのかもしれません。しかしフィルムのデータ化については(写真に関しても同様ですが)実はフィルムよりもデータの方が保存が大変という説もあり、それ自体なかなか難しい問題でもあります。
 
 
 
 
また、カメラが小型になってウェアラブル化する(身につけられるようになる)というのもこの数年の大きな特徴だと言えます。「GoPro」というメーカーのものが特に有名ですが、元々はサーフィンなどのスポーツをするときにボードに取り付けたり、身につけたりしていた「アクションカメラ」というカテゴリーのカメラが色々なメーカーから発売されています。本体わずか数センチのカメラがあれば今までは見られなかったイメージが見られるようになるわけですが、さてどんな使い方が考えられるでしょう。

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こちらは「ドローン」と呼ばれる小型の空撮用の飛行機。カメラを搭載して無線で映像を飛ばして、その映像をリアルタイムに見ることもできます。こんなものが色々な場所を飛び回っている状況は想像するとちょっと怖いですが、しかし例えばGoogleアースやストリートビューなどの技術も10年前にはなかったわけで、そう考えればこういったカジュアルな(?)空撮の機材が普及することで、現時点ではないようなサーヴィスやエンターテイメントなども考えられるかもしれません。

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どうだったでしょうか。冒頭にも書いたとおり、新しい技術が次々に出てきても、作品を作る側としてはその技術に「使われて」しまっては仕方がないわけです。一方でこうした新しい技術が、数年後に身近な環境の一部になっていることを想像することから、表現だけでなく社会の変化についても色々と考えることができます。そんなことも含めて、大学に入ったらこういった展示会にも足を運んでみるのもよいかもしれません。またちょうどデザイン雑誌『AXIS』の少し前の号(10月号)でも「未来の“撮り方”」という新しい撮影技術についての特集記事がありました。興味を持った人は併せて見てみてください。

映像科:高野文子の漫画はなぜ本のかたちをしているのか

 

こんにちは、映像科講師の百瀬文です。
今回は受験のプレッシャーで日々疲弊している皆さんのせめてもの息抜きになればと思い、漫画家・高野文子のことについて書いてみようと思います。
すでに2002年の『ユリイカ』では大々的な高野文子特集が組まれており、何をいまさら感はあるのですが、自分なりにちょっと「ここがそそる!」というポイントをつらつらと書き連ねてみようと思います。というのも先日、高野文子の12年ぶりの新刊『ドミトリーともきんす』が発売されたからなんですね。

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私もようやくこのあいだ立川のオリオンパピルスに走り込んで手に入れてきました。
(余談ではありますが、今年は大島弓子も新刊を出し、池田理代子先生に至っては40年ぶりに『ベルばら』の最新巻を出すという漫画界にとってはとんでもない年であります)
1980年代初頭に「漫画界のニューウェーブ」として注目を浴び、デビュー30年で単行本6冊という寡作なスタイルにもかかわらず以前として根強い支持を誇る高野文子ですが、高校生である皆さんにとっては、もしかしたら初めて知ったという人も多いのかもしれません。しかし「高野文子なる遺伝子」を積極的に取り込み更新を続けている漫画家は少なからず存在しており、高野文子作品を知らなくてもそういった作品とおそらく一度は皆さんも出会っているのではないかと思います。ぱっと一番に思いつくのは、今月刊アフタヌーンで『宝石の国』を連載している市川春子などでしょうか。
今回私は「高野文子の漫画はなぜ本のかたちをしているのか」という、一見当たり前やんけというようなタイトルをつけました。おそらく、漫画が漫画として目に飛び込んでくる前に、まず必ず「本の形態をしている」という純然たる事実に対して、ここまで独自のこだわりを持って向かい合っている作家は高野文子以外にいないのではないかと思います。
しかしいったんここではその話は置いておいて、私がいちおう映像科で教えている人間ということもあり、映画と漫画の関係性について考えていくことにしましょう。

1. 映画/漫画の文法

フェデリコ・フェリーニをして「いつも考えていたのは漫画のことだった」と言わしめたように、映画と漫画の間には切っても切れない関係がいくつもあります。
たとえば映画ならカット、漫画ならコマ割りになるわけですが、どちらも異なる時間軸をつなぎ合わせて、連続して見たときにさも「かつてそこにそのような時間が流れていた」ことをあらわすことが出来るというような点です。

たとえばここに、《顔を上げた女性の顔》の映像/コマがあったとしましょう。
そして次の瞬間に、《朝焼け空に浮かぶ飛行機》の映像/コマがあったとします。

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あなたは今、この女性が飛行機を見つめていたと、そんな想像をしませんでしたか?

実際のところ、その朝焼け空が本当に彼女が見上げていた空だったのか、私たちには確かめることはできません。
それは別に1年後とかの、彼女と何の関係もない場所の朝焼け空でもいいわけです。実際上の2枚の画像も、それぞれ別のフリー素材サイトから私が適当に拾ってきた画像です。
私たちはそのような「時間軸がある慣習に沿って縫い合わせられたもの」を見ると、まるでそれがはじめからひとつのタイムラインであったかのように錯覚してしまいます。この慣習こそが映像/漫画を読むための文法なのであり、私たちは幼い頃から「そう見るように」無意識の訓練をしてきたのです。
私たちがこの仕組みを意識しながら映画や漫画を見るという事はなかなかありません。映画をいちいちカットとカットのつながりとして認識していたら、とても物語に没入できないからです。
ですが、「漫画の読み方がわからない」という人はたまにいます。うちの母親がまさしくそうで、どうやら単純な4コマ漫画なら読めるらしいのですが、最初はまったく言ってる意味がわかりませんでした。これも同じく訓練の問題です。彼らには漫画というものがどのように見えているのだろう、コラージュされた絵のように見えているのだろうか?などとその都度いつも考えさせられます。
映画においてモンタージュという技法が確立され、カットとカットのつなぎが意図的な意味を付与するものとして認識されてからもう何十年も経ちます。
まだまったくそんなことが知られていない時代、偶然誰かがフィルム同士をいじってつなげてみた瞬間、人々はそこにいったいどんな光景を見つけたのでしょう。

高野文子の漫画にはっとさせられるのは、すでにそのような「文法を掌握したはずの私たち」が、まるでその文法に支配される以前の状態に放り出されたかのような気持ちになるからではないか、と私は最近考えています。
歌人の穂村弘も「週刊文春」10月16日号の中で、ほぼ似たようなことを言っています。

「高野文子の作品を読む時はいつも緊張する。『漫画を読む』という行為そのものの見直しを迫られるからだ」

なるほど、それは漫画を手に取りながら同時に「漫画を読んでいる自分」というものを強く意識させられるような、そんな感覚と言ってもいいかもしれません。今からその体験を具体的に追いかけてみましょう。

2. 私もまた本を読んでいる

高野文子作品の特徴として、よく作中に「本を読んでいる人」「空想している人」が出てきます。
それを最も強い形でモチーフとして前面に押し出しているのが、『黄色い本』(2002)という作品です。

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北の地方の田舎で暮らす女子高生・ミチコは、ある日学校の図書室でロジェ・マルタン・デュ・ガールの『チボー家の人々』を借り、家や学校でそれをゆっくりと読み進めながら、やがて登場人物であるジャック・チボーの姿に自分を重ねていきます。
ひとりで本を読むときのあの没入感というものは誰でも経験があるかと思いますが、この作品では終始「いかにして没入状態を表象するか」ということが様々なやりかたで描き出されています。
たとえば上のページの下段のコマの表現などです。本を読むには「音読」と「黙読」のふたつの方法があるわけなのですが、ミチコは黙読で本の中のジャックの台詞を読んでいます。それにも関わらず、本来静寂が訪れているはずのシーンには破裂した吹き出しが描かれ、まるでその空間にミチコの声が大きく鳴り響いているかのように描かれています。
同時にこの声はジャックの声でもあり、ミチコが空間─もしくはミチコの頭蓋骨の中─に響きわたるその声に集中して耳を傾けているかのようにも見えます。
しかしふと立ち戻って考えてみると、私たちが本を黙読するとき、その文字たちはどのように頭の中に届くのでしょうか。おそらく、私たちもこの上段のコマに「描かれた」ページ上の文字をミチコと一緒に追いながら、頭の中で何者か(≒自分)の声で再生されるのを聞いているのではないでしょうか。

3. ゆらぐ「読者」の立ち位置

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引き続き『黄色い本』を見ていきます。ミチコはある晩テレビで放送していたフランス映画を偶然目にし、その俳優の姿をジャックのイメージに重ねます。
この時からミチコの生活空間の中に空想上の存在としてのジャックが地続きに現れるようになるのですが、この1ページ目下段部のコマにある初登場時のジャックの「何をしているの」という台詞が、まるでさっきまでミチコが観ていた映画がまだ続いているかのように白い字幕であらわされているのがとても印象的です。
この瞬間、すでに私たちは「ジャックと話すミチコを見ている」のではなく、今自分がまさしく手にとっているこの本を通して「ジャックと見つめ合っている」ことに気づきます。
一気に物語の当事者にされることで、逆説的に「さっきまで自分は安全な『読者』という特権的な場所にいたのだ」という事実が、急に目を覚まされた身体の感覚とともに立ち上がってきます。穂村弘の言うところの緊張感とは、この物語が一瞬ほどける感じに通ずるのではないでしょうか。
さっき紹介したような映画的な文法にそのまま乗っ取って見るならば、このシーンはそのままミチコが自身の目で見た視界として安心して眺めていられるはずなのです。
しかし、私たちはすでにこの「映画字幕」という表象すら、日常生活の中で映画におけるひとつの「文法」として学習してしまっている。
このコマはまさしく私たちに馴染み深い「画面」そのものとして私たちの前に立ち現れます。

次のページでは、ミチコが机の上でクリップで止めたページを愛おしそうにめくっているコマの上にジャックの「クリップがとめてあるのはなぜ」という台詞が映画字幕でかぶさっています。
普段、映画における俳優たちは、自分たちが映像内に存在しながら同時に自分たちの上にかぶさる字幕のことを意識することはできません。
つまりこの光景をミチコ本人が見ることはできないのです。しかし彼女はその自分が存在している空間を頭の中で思い描くことはできます。
このコマは、まるでミチコが空想の中で自分自身を映画の登場人物に仕立て上げているようにも見えますし、とても面白い構造を持っている画面といえます。そこでは絶え間なく視線を浴びせかける私たち(観客)の存在をミチコ自身が意識しながら、仄かなナルシシズムをたたえて画面の中に存在しているようにも見えます。

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『黄色い本』というタイトルは、この作品のモチーフである『チボー家の人々』の実際に流通していたハードカバー本がまさに黄色い表紙だったことに由来します。
そうなると、この『黄色い本』という漫画そのものがまた同時に「黄色い本」であるということの意味がより鮮烈に浮かび上がってくるのではないかと思います。
そうです、私たちもまた、ミチコと同じように「黄色い本」を読んでいるのです。

4.いつの時代も問い直されること

ちなみに、このような「本自身が、自らが本であることを自覚している」漫画というもの自体は、べつに新しいものではありません。
これはヴィデオアートなどの世界にも言えることかと思いますが、まだメディアが内部で細分化しきらない黎明期の方が「そのメディアにしか出来ないことってなんだろう?」ということを考えることが多いのです。
下にあげたのは1960年の大友朗の『日の丸くん』という作品です。
(当時『日の丸』という名前の児童雑誌があったのでした)

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ここでは漫画というものそもそもが黒いインクで印刷された「紙」であるということが、ユーモラスに描き出されています。作中で王様の後ろにスクリーンのようにかざされた白い紙は、同時に私たちがこの瞬間見て触っている「紙のページ」そのものでもあるのです。
ここでもまた「本自身が、自らが本であることを自覚している」という構造が生まれています。
ここで、せっかくなので先ほどちらっと触れた同年代の黎明期のビデオアートをご紹介しましょう。

これは、日本で『日の丸くん』が掲載されたのとほぼ同時期の60年代に、ナム・ジュン・パイクという作家が制作した『Zen For Film』(1962)という作品です。白い画面に何やらチラチラと黒くまたたくものがありますが、これは何も写っていない空白のフィルムに付着した細かな埃を映しているのです。
1960年代の西ドイツを筆頭に、世界各地でフルクサスという様々なジャンルにまたがった前衛芸術運動が巻き起こりました。この作品はその中で制作された『フルクサス・フィルム』という複数存在する映画アンソロジーの中におさめられた映像作品です。このアンソロジーに参加した作家は映画監督ではなくほとんどがアーティストであり、彼らは前述してきたような「映画の文法」からいかにして逃れるかということを様々なアプローチで実践していました。

また、その10年後の70年代には、パフォーマンスアーティストたちが自らの身体を積極的に映像の中に取り込みはじめます。これは、ヴィト・アコンチという作家の『Centers』(1971)という作品です。

画面の中央(Center)に向って、アコンチ自身が指を指しています。この場合、一見私たちがアコンチに指を指されているように見えるのですが、撮影現場でカメラと向かい合っているアコンチは、まるで鏡に向って自分自身を指差しているような状態とも言えるわけです。
ここまでスマートフォンにおける「自撮り」という行為が普及した現代においては、この作品もまた当時とは違った受け止められ方をするのではないでしょうか。

以上にあげたナム・ジュン・パイクの作品にも、ヴィト・アコンチの作品にも、『日の丸くん』と同じく「映像自身が、自らが映像であることを自覚している」という構造が生まれています。
高野文子の作品が新鮮なのは、毎回軽やかなタッチで情緒的な情景が描き出されているにもかかわらず、同時にこのようなメディア黎明期の原始的な「見ること/読むこと」に対する問題意識をひそやかに内包しているからかもしれません。

5.おわりに

それでは、冒頭に紹介した今回の新刊、『ドミトリーともきんす』について最後に少し触れておきましょう。
この本は実在の四人の科学者の著作をめぐる、これもまた「本の中で本を描く」話です。
この下宿屋「ドミトリーともきんす」に住んでいるのはまだ学生の姿をしている朝永振一郎、牧野富太郎、中谷宇吉郎、湯川秀樹の4人。語り部でありこの下宿屋の主人である「とも子さん」を通して、読者は彼らの言葉の断片に触れていきます。
科学の本であるということを意識し、作者が「あえて気持ちを込めないような線を描くけいこをした」と言うように、人物はいつもと雰囲気の違う均一な製図ペンで描かれ、全体的に静謐な印象を与えます。

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私が中でも好きなのはプロローグのこのシーンです。
なぜこのコマにはっとさせられたのかというと、

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この瞬間、手に持っていたページがまさしくこうなっていたからなのでした。

さて、延々とここまで高野文子の魅力を自分なりに書き連ねてきましたが、いかがだったでしょうか。
漫画というメディアに関わらず、なにかを作ることという上で重要なヒントになるようなことだったり、あるいは先人たちが長いこと積み重ねてきたような考えの系譜であったり、なにか皆さんがこれから先考えるきっかけのようなものを見つけてもらえたのならば幸いです。
是非書店で見つけたら、勉強の合間に読んでみてください。
それではまた!

百瀬文(映像科)

 

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画像:
『黄色い本』高野文子/2002/講談社
『ドミトリーともきんす』高野文子/2014/中央公論新社
『日の丸くん』大友朗/1960/サン出版

映像科:公開コンクールの報告(武蔵美入試のポイント解説)

こんにちは、映像科の講師の森田です。すっかり秋も深まって急に寒くなったので風邪気味の人もいるかと思います。受験生の皆さんはどうぞお気をつけて。この時期は芸術祭のシーズンでもありますね。先週末は東京造形大、今週末は武蔵美、来週は多摩美ということで、受験生の中には芸大も含めて全部制覇するという強者もいるのでしょうか。全部と言わずとも、少なくとも第一志望の大学の芸術祭には行ってみることをおススメしています。

さて、先々週ですが映像科の公開コンクール(武蔵野美大映像学科型模擬試験)が行われました。今回受験できなかった人のためにも、あるいは受験する可能性があるけれども、まだ対策を始めていないという人のためにも、参考のために課題と評価のポイントを解説しておきます。

■感覚テスト
下記の文から想起する状況のイメージ、あるいは出来事のイメージを解答欄に絵と文章で表現しなさい。
「しるしを付ける」(B3画用紙/3時間)

感覚テストは映像学科を受験する学生の多くが選択する(一般方式では必須の)科目で映像学科受験の名物的な課題です。ここ数年は短い文章やキーワードをきっかけにして絵と文章で創作を行います。去年の入試の問題は「近づくにつれて」というものでしたが、これを聞くと「何が近づくんだ?」と思うはずです。このように具体的な場面に関わるイメージの「余白を埋める(書かれていない情報を想像する)」ということが発想の中心になります。今回のコンクールの課題でも「しるしを付ける」と聞いて「何のしるし?」とか「誰が付けるか?」など、なるべく具体的な場面を想像しなければいけないので、それが創作の中で明らかにされていることがひとつの(大きな)評価基準だと言えます。

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・制作の一例。この作品は主人公が父親の本棚から本を抜き取り、そのページの端にドッグイア(栞代わりの折り返し)を見つけることから、普段は感じない親近感を感じ、さらにそこに自分もドッグイアを付けてみるという内容です。言葉ではない密かな共有、コミュニケーションを題材としているところが良いですね。

■小論文(選択科目)
配布された「水準器」をこの場で使用することから、または使用される状況を想定することから、あなたなりの論点を発見して、「○○は○○である」と題して論じなさい。(600字以内/2時間))

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小論文では毎年モチーフが渡されて、そのモチーフを手がかりとして論を展開していくという、これも映像学科独自の小論文になっています。ちなみに昨年の入試では「工作キット(クワガタ)」という段ボール製の模型が配布されました。この小論文のポイントは「いま・ここで・自分が・体験する」ことから論を組み立て始める、ということに尽きます。工作キットの場合ならば、もし仮に本番で上手く組み立てられなかったとしたら、その「上手く組み立てられなかった」という経験から論点を見つける、ということが望まれているということです。今回のコンクールでも、小論文を書いている机の上に水準器を置いてみたら「水平だった」という人もいれば、「微妙に傾いていた」という発見をした人もいますが、どちらが正解ということではなく、それぞれその後にどのような論を展開したのか、その発想の独創性や論理的に一貫性かあるかどうかということが評価の対象になります。

■鉛筆デッサン(選択科目)
配布されたモチーフ3点を構成して描きなさい。(B3画用紙/3時間)
〈水準器・木片・布〉

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鉛筆デッサンは課題文こそシンプルですが、毎回他の学科のデッサンではあまりお目にかからないモチーフが出されます。というのもここ数年は小論文と鉛筆デッサンで同じモチーフ(あるいは一部同じモチーフ)が出題されているからです。小論文の方がテーマの設定などもあるため、優先的に考えられているのかもしれません(これは勝手な推測です)。いずれにせよ去年であれば先ほど小論文の解説で挙げた「工作キット(クワガタ)」がデッサンの方でもモチーフになっていました。大学が発行している資料によれば「オーソドックスなデッサン力が問われる」ということが評価のポイントとして挙げられていますが、とはいえ課題自体に「ひとひねり」あることもあり得るので、デッサン受験の人も映像学科独自の対策が必要になってくるかと思います。今回の公開コンクールでは水準器を含む3つのモチーフを描く、というオーソドックスな出題でした。木片の角度と水準器で何か試みたりする人もいるかと予想してましたが、意外とそういった「攻めてる」作品は少なかったように思います。

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・講評風景(最後の成績発表&賞状を渡す場面を撮ろうとして忘れてしまいました!)

*今回の課題や解説を読んで質問や相談がある場合は映像科の方まで。お気軽にどうぞ。

映像科:金土日コースの近況とおすすめ展覧会

こんにちは、映像科の森田です。直前のお知らせということになってしまいますが(というかこの記事をアップする金曜日が申し込みの締切日ではあるのですが)12日・13日は映像科の公開コンクールが開催されます。映像科では毎年武蔵野美大映像学科の模擬試験を行っていますが、今回は受けられないという人のためにも少しコンクールの内容を紹介しておきます。また次回のブログでは公開コンクールの問題を解説しながら、最新の武蔵美映像学科の対策についてもお伝えする予定です。お楽しみに!

■【実技/必須】
○感覚テスト(150点/3時間)…与えられたテーマから創作する問題です。B3画用紙に絵と文章によって表現します。去年のテーマは「近づくにつれて」というキーワードでしたが、さて今年はどうでしょうか。

■【選択科目/小論文と鉛筆デッサンから選択(実際の試験では数学を選択することもできます)】
○小論文(150点/2時間)…工業製品などのモチーフを観察したことをきっかけとして書く内容になってします。
○鉛筆デッサン(150点/3時間)…こちらも工業製品を中心とした基本的な鉛筆デッサンですが。
*なお、ここ数年の過去の出題では、小論文と鉛筆デッサンのモチーフが一部共通することもありました。

■【学科】
○国語・英語(各100点)…今年から出題に変更があることが発表されています。詳しくは武蔵美のWebで見てみてください。

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ところでそんな映像科生やすべての美大受験生におすすめしたいしたいのは、9月27日から東京都現代美術館でやっている『AROUND MICHEL GONDRY’S WORLD ミシェル・ゴンドリーの世界一周』展です。ミシェル・ゴンドリーは元々はミュージック・ビデオの制作で有名だった人ですが、2000年代以降は映画監督としても活躍しています。映像科の授業でも「記憶をビジュアル化している映像作品」のひとつとして初期の映画『エターナル・サンシャイン』を紹介したことがあります。

今回の展覧会はミュージック・ビデオの代表作19作品を見られるインスタレーションと、映画に使われた大道具や小道具、そしてゴンドリーのドローイングなどが展示されていますが、ある意味で展覧会のメインになっているのが、展示会場のセットを使って実際に映画を作ることができるワークショップでしょう。期間中の水・土・日曜日と祝日に行われているらしく、事前に予約すれば誰でも申し込めるようです。そんなこととは知らずに観に行ったのがちょうど水曜日だったのですが、さすがにワークショップの風景は載せられないので、展示されているセットのうちのいくつかだけ撮影してみました。

展示スペースへの入り口はこんな感じ。美術館の中に突如ちょっとレトロなレンタル屋が現れます。
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路地裏(?)のセット。グラフィティやブロック塀の汚れもリアルです。
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電車に乗っているシーンも撮れちゃいます。写真ではわかりづらいですが、車窓は液晶モニタになっていて、昼/夜、都会/郊外などの操作も可能。
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キャンプのシーン。楽しそうですね。
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派出所と、奥には取調室的な部屋もあり。
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ワークショップがない日もこれらのセットは入ったり写真を撮ったりできます。興味を持った人はぜひ実際に行って見てみてください!(来年の1月4日までやっているようです!)