カテゴリー別アーカイブ: 新宿校

映像科:金土日コースの近況とオススメ展覧会

こんにちは。映像科の森田です。あっという間に5月も後半、一学期も折り返しとなりました。金土日コースですが、今日の金曜日の授業では人物クロッキーを行いました。映像科というとデッサンやクロッキーをやる印象がないかもしれませんが、そんなこともありません。実写/アニメーション問わず、映像とは本来「光と影の芸術」あるいは「動きと時間の芸術」でもあるわけで、モチーフをしっかり観察したり、人物の特徴的な動きや些細なしぐさを捉えようとすることは、大切です。

ちなみに明日からは実写映像の実習授業(日曜日は新宿御苑へ…天気は今のところ良さそうなのでひと安心)が始まり、来週以降もコマ撮りアニメーションの実習、映像作品研究(プレゼンとディスカッション)、さらにオープンキャンパス見学…、と一学期後半は特別授業が続きますが、もちろん受験に向けた対策もしっかり始めています。

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そんな梅雨入り前のさわやかな季節にオススメ展覧会情報を。竹橋の東京国立近代美術館で開催されている『映画をめぐる美術 マルセル・ブロータースから始める』は、ぜひ行ってみて欲しい展覧会です。概要には「マルセル・ブロータース(1924-1976)はベルギーの美術家で、詩人として出発しながらも1964年以降は美術の領域でオブジェや写真、短編映画の製作などを行った…」と書かれていますが、この展覧会は過去現在問わず、そうした「美術の分野で映像を扱う作品」または「美術と映像/映画の領域を横断して活動する作家」を紹介する企画展になっています。

この展覧会の見どころのひとつは、展示フロアの構成にあるかもしれません。会場全体が(シネコンのように)いくつかの展示室から成っていて、中央のロビーにあたる空間には、それぞれの展示室のテーマを示唆する16mmフィルムの映画が映写されています。「16mmのフィルム」とか「映写」と言ってわかる映画大好きな人もいるとは思いますが、しかし普通に生活していて16mmフィルムの映写機を見る機会は今やなかなかありません。フィルムという物質でもあり、なおかつ光という現象でもある映像の不思議、さらに映画の歴史を知るにはベストな展覧会と言えるのではないでしょうか。

もちろん展示されている作品ひとつひとつからも色々なことを考えられます。しかも高校生以下は無料(!)というところも良い。ただし会期は6/1(日)までということなので、偶然この新美NEWSを読んで、なおかつ土日の予定がまだ空いているという人は、ぜひどうぞ。

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日本画科便り2-講師デモンストレーション制作-

日本画科です。

 

日本画科では周期的なイベント、レクチャー、デモンストレーション(デモスト)を行い、生徒のブラッシュアップを図っています。

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特に、講師の制作デモンストレーション(デモスト)は「全講師」が行います。口頭指導、個人指導の他、”直に見て学ぶ”というそんな学びのあり方も大切にしています。

現在は、石膏デッサンと静物着彩を中心に「描き出し」、「クロッキー」を生徒と一緒に描くことが多いです。

 

今週は、角田講師が石膏像ヘルメスの描き出しデモストを行いました。

2-4←今回は石膏像ヘルメス!胸像の中では難易度の高い石膏像です。

 

2-3←アタリ取り10分経過。この段階で生徒を集めて描きだしのレクチャー!日本画は12時間制作のため、最初の描き始めがとっても大事なんです。

 

2-2←この段階でだいたい2時間。まずまずですね。

 

2-1←ここでストップ。2時間30分程度です。ここでまた集合し、レクチャー。何が大事か、何をすべきか。

 

 

 

このように、日本画科ではレクチャー、デモンストレーションを行っています。

尚、講師の制作デモンストレーション(デモスト)作品は教材用、説明会用として参考作品にしています。これらはまた別の方法で活用されます。

 

日本画科に興味ある受験生がいらっしゃいましたら是非見学にいらしてください。

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GRAVITY

こんにちは、油絵科松田です

 

今年の一月くらいでしょうか、どうしても映画館で観たい映画があると妻に誘われ、ゼログラビティという映画を観ました。

3Dで映画を観たのはアバター以来、3Dがこんなに進化しているとは、、、

 

 

以前の3Dは幾つかの階層が手前に出てくる不自然なもの、正直映画は2Dで良いかなと思ってましたが今は違うんですね、感心しました。

勿論手前にも映像は出てくるんですが、圧倒的な奥行きへと意識が引きずり込まれます。

舞台が宇宙空間というのもあるのでしょうが、重力軸も無く自分の位置感覚を失いそうになります。私も少し酔いました。

席まで動いた日には前の席のポケットに袋が必要だったはず、、

 

 

 

 

内容についてはネタバレになりますので書きませんが、最近のよくある娯楽映画とは全く違いました。

 

徹底的にリサーチされたリアリティと、少しのフィクションの境目が分からなくなるほど引きずり込まれますが、押し付けがましい内容ではなく、ストーリーはいたってシンプルです。

シンプルな故の隠喩が至る所に配置されてます。 この監督凄いです、、(脚本は親子で書かれてます)

 

最近DVDが発売されたので何回か見直してみましたが、特典映像をみてまたビックリ、、映像内容について尋常じゃないリサーチ量です。度を超えすぎてます。

 

少しのフィクションは入っているのですから適当に演出すればいいような場所、一度観たくらいでは気付かない場所まで徹底的に描き込まれています。

 

 

ストーリーや映像美だけでなく、制作者の思考を深く感じ取れる映画を久々に観ました。

 

映画館での上映は終わっていますので3Dで観ることはできないかもしれませんが、機会がもしあれば是非3Dでご覧になられては?

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話題の「アクト・オブ・キリング」を観てきました。

こんにちは、映像科講師の百瀬です。

皆さんの中でもともと映像表現に興味がある人は、最近の映画の動向も押さえている人が多いかと思うのですが、この映画をご存知ですか?

「アクト・オブ・キリング THE ACT OF KILLING」
http://www.aok-movie.com/

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監督は気鋭のアメリカ人映画監督、ジョシュア・オッペンハイマー。日本では今年の4月12日に公開されたばかりの、今多くの話題を呼んでいる映画です。

「あなたが行った虐殺を、もう一度演じてみませんか?」

これが日本版サイトに掲げられているこの映画のキャッチコピーです。
その文面が示すとおりこの映画は、ジョシュア監督が「かつて虐殺を行使した人々に、自らそれを再演してもらい映画を作ってもらう」という衝撃的なプロジェクトを実施し、その記録を作品化したものです。

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あらすじについて語る前に、ここで「アクト・オブ・キリング」というタイトルに注目してみましょう。「キリング」は「KILLING」なので直訳するとそのまま「殺すことの演技」ですね。
英語が得意な人ならば、このタイトル中の「ACT」という単語の中に二重の意味が含まれていることにすでに気づくと思います。
ひとつは「演技(ふるまい)」という意味の「ACT」。もうひとつは「行為」という意味の「ACT」です。
実際に虐殺を行った者が、今度はそれを演じる者となる。「ほんとう/うそ」という見方で見ると、一見まったく正反対のことのようにも思える「行為/演技」というふたつの動作が、このひとつの単語の中に奇妙にも同居しています。
その事実が実にこの映画の本質を突くものであるということが、見終わった後でわかるのではないかと思います。

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実際にその虐殺が行われたのは1965年のインドネシア。スカルノ大統領(当時)親衛隊の一部によるクーデター未遂事件が起こったのですが、当時の軍部によってその背後組織は共産党だとされ、当時インドネシアに住んでいた華僑を含む100万人規模の共産党支持者が一方的に虐殺されました。当時虐殺を行ったメンバーは、政府からの金で今も悠々自適な暮らしを送っています。

この映画で主にスポットを当てられているのは、インドネシア軍部から依頼を受け、実際にこの虐殺を「実行する」役目を任されていた「ヘルマン」と呼ばれる人々です。
そしてその中で殺戮のリーダー的な役目を果たしていたアンワル・コンゴという初老の男性を中心にこの映画は進行していきます。

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ヘルマンという言葉の語源は「フリー・マン」。彼らがその言葉を口にするとき、そこにあるのは自分たちが行っていること、法律よりも自分たちの自由奔放な価値感が勝っていることに対する「誇り」です。もともとダフ屋行為や買収行為などを行って生計を立てていた彼らの立ち位置というのは、日本でいうところの暴力団組織のようなものにあたります。

つまり私たちがいったん認識しなければならないのは、彼らにはまったくその虐殺に対する罪の意識がなかったということなのです。国の統制を乱した者達を「正義によって」抹殺したということは、彼らの生まれ育った頃から隣り合うギャング的価値観を肯定してくれるものでさえありました。彼らはジョシュア監督の映画製作依頼に対し、「俺たちの勇姿をみんなに知ってもらうんだ!」と嬉々として参加するのです。

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映画の前半部は、積極的に虐殺シーンの撮影に臨むアンワルたちの姿が映されます。
自分たちの演技に対し、真剣なコメントをかけあいながら虐殺シーンの再演の精度を上げていこうとします。「映画にはユーモアも必要」と言い切るアンワルの奇抜なアイデアに、笑いを漏らす映画の参加者たち。このあまりにも軽い「死」の感覚を前にし、観賞者はすでに倫理観のゆらぎと嫌悪感のやりどころのなさの渦の中に取り残されています。

それはこのアンワルの口から紡ぎだされる、あまりにおぞましくも非常にあっけらかんとした言葉が、「自分ももしかしたら、そっち側にいたのかもしれない」と、私たちの日々の生活の中に眠る暴力性について考えさせられる示唆的な言葉に満ちあふれているからかもしれません。

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また、この映画の構造的な面白さとして特筆すべきは、「映画」として撮影されているシーンと「ラフシーン」として撮影されているシーンがごちゃまぜになっていて、何をもって演技とするのか?という定義が最初から最後までかき乱され続けているところでしょう。もちろんこのような構造を持った映画は昔からいくつもあるのですが、前述したとおり「アクト」に込められた意味が最初からここまで強く提示されているゆえに、この構造が強度として強く効いているのだという気がします。

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後半において、演技をするアンワルにある変化が訪れます。

今まで「加害者役」として自らの虐殺行為をなぞってきたアンワルですが、ある瞬間から彼に殺された「被害者役」も演じるようになるのです。

ここの転換はかなりサラッと描かれており、個人的には「えっ?」と思ってしまったのですが、この反転は実はかなり重大なことであるはずです。どう考えても監督にその展開を望む欲望がなければそのようなことにはならないはずで、そこに「ドキュメンタリーのふりをしたフィクション(またはフィクションのふりをしたドキュメンタリー)」作品の重大な本質があると個人的には思っています。

かつて自分が殺戮に使っていた針金を、自ら今度は自分の首に巻き付け、その両端を引っ張られるのを待つアンワル。

彼がそこでどういう表情をしたのかは、是非みなさんに映画館で確かめてほしいと思います。

率直に言ってしまえば、ある意味このラストへ向かう展開はこういったテーマを選ぶ以上、予定調和的な展開とも言えます。
ただ、もしそこにそういう筋書きを描く者がいて、そこにアンワルというひとりの人間(たとえ彼が神に許される人間ではなかったとしても)が取り込まれていったのだと思うと、いちばん残酷なのは誰なのだろうか、それをこうして吐き気をもよおしながらもなぜ私は目を離せずにいるのか、と思ってしまいました。
彼の行ったおぞましき「アクト」もまた、得体の知れぬ何者かによって引き受けさせられた「アクト」だったのでしょうか。それは映画の中の話なのか、映画の外の話なのか。ずっと胃の中に嫌な余韻が残ります。

撮る者と撮られる者との関係、それは、映像を撮る者が一生背負わなければならない業のようなものなのかもしれません。
私には、この映画のテーマが問いているであろうごく一般的な倫理観とは別のところで、またある種の倫理観を問われているような気がしました。
ここ最近で一番胸がむかむかした映画でしたが、あまり語るとネタばれになるのでこのへんで。

是非、映画館で見てください!

百瀬文(映像科講師)