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先端コース 夏期講習後期の特徴

先端コースです。

夏期講習前期も無事終わり、今月の12日からは後期がはじまります。

先端コース夏期講習の後期は、二次対策を集中しておこないますが、二次対策といっても、過去問を反復練習するだけではありません。
夏期講習後期は、先端コースの一年のなかでも、最も刺激的なカリキュラムです。

今回は、後期カリキュラムの紹介として、3つの特徴を説明してみようと思います。

ひとつめは、ゲストアーティストによる特別講義。
今年も、西尾康之さんや森弘治さんといった、世界のアートシーンで活躍を続けるアーティストの方々をゲストとしてお迎えし、授業をおこなってもらいます。
授業構成としては、まずはじめに、ゲストの方の活動や作品などをレクチャーとして紹介していただき、その後にワークショップをおこないます。
現代アートの世界のリアルな状況や、将来へのアドバイスなど、普段の授業ではなかなか聞くことのできない「超実践的」な情報をたくさん聞ける貴重な機会です。

ふたつめは、様々なバリエーションのワークショップ。
新美では、平常授業でも積極的にワークショップを取り入れたカリキュラムを組んでいますが、夏期講習後期では特に集中しておこないます。
いろいろな切り口で、いろいろなメディアや素材を使って、おそらく今まで想像したこともなかった視点から、「作品をつくる」ということについて考えることになるでしょう。
いかに頭を柔らかくし、新しい刺激を受け入れることができるか。
自分の想像力と表現力の限界を広げるチャンスです。

みっつめは、最終日に全員でおこなう「大講評会」。
夏期講習後期の最終的な目標は、講習会中にひとりひとりが作品をつくり、それを全員で講評する、ということです。
講習生のみなさんには、ゲストアーティストによる特別講義やワークショップから刺激を受けつつ、最終日の大講評会に向けて作品制作をしてもらいます。
途中、中間講評や面談といったかたちでコミュニケーションを取りつつ、段階的に完成へと歩み寄るプロセスを体験してもらうことも重要なことです。
夏期講習は内部生だけでなく、地方からの講習生も多く参加するので、毎年の大講評会は様々な意見が飛び交い、濃密な議論が交わされます。

このように、先端コースの夏期講習後期のカリキュラムは、他のどの講習会や授業とも違った独特の内容と雰囲気を持っています。
例年、生徒の様子を見ていると、この夏期講習後期がひとつのターニングポイントになるというケースも多く見受けられます。

先端科受験を考えている人はもちろんですが、「作品をつくる」ということについて、あらためて考えてみたい人や、なにか壁にぶつかっている人、それをブレイクスルーしたい人…… そんな人たちにもぜひ受講してもらいたい内容となっています。

先端芸術表現科のワークショップ part1

先端芸術表現科です、今回で四回目の更新です。

先端芸術表現科の入試では「個人資料ファイル」の提出があり、受験する前段階で作品集をつくれるだけの作品制作をするのが先端科の特徴ということを初回のブログでお話したと思います。
ですが新美に来る大半の生徒は作品制作未経験ですので、関心を抱いている事、表現する事へ思いを膨らませていても、作品化するには思った以上に時間がかかります。
この段階では、作品制作にある色々な要素を体験し作品の組み立てを学ぶことが必要になってくるのです。
そのため、先端芸術表現科では講師によるワークショップを年間通して約20回ほど行っています。それらはあらゆるテーマや視点に基づいてプログラムされ、生徒の作品制作の合間に割当てられています。

今回はその一つ『首像のワークショップ』の報告をしたいと思います。
ここでは自分の首から上、つまり頭部を観察して粘土で造形する彫刻制作です。

*制作風景制作風景

初めて首像を制作した生徒が「不気味に感じる」と話していたのが印象的だったので、ここで少し余談です。
日本人が初めてみたとされる「首像」は、江戸幕府からアメリカに派遣された使節団、村垣淡路主範正(むらがきあわじのかみのりまさ)がホワイトハウス内の肖像彫刻を我国の刑罰場の様だと表現したことから明らかになっています。肖像彫刻の存在を知らない者にとって打ち首を連想させたことは無理もないかもしれません。
ちなみに彫刻という言葉は明治に入ってから日本に導入されるのですが、当初は「彫り刻む」という手法として受けとられていました。そんなことから、東京美術学校を卒業してまもない大村西崖は粘土を使った塑造を含めれば彫刻ではなく彫塑と呼ぶのが適当であると主張したことからも明らかになっています。その後「彫刻」は新造語というかたちで解釈されるようになり、今日のような三次元の立体造形物という広い意味で使われているのです。

戻りまして、今回の首像のワークショップについて

手法としては先に出た「塑造」といえると思いますが、先端芸術表現科では首像をつくるための塑造を学ぶというよりも、制作プロセスにみる彫刻的やりとりに触れることを目的としています。
この授業では首像制作及びその作品を写真に撮るというもの。そしてこの造形と撮影を授業外の自習時間を含め二週間弱の間繰り返しおこないます。
このように作品と着かず離れずの関係の中からうまれた作品と数ある写真をもとに、自分の作品とその制作プロセスについてプレゼンテーションを行うというのがワークショップの流れです。

*プレゼンテーションの様子プレゼン風景

ここで大切な事は、作品とのやり取りを体感する事とそれを伝えることです。
最終形態を目的にするというよりは、自分のモチーフ(頭部)と素材(粘土)というスタート地点から、どのように変化ししてゆくのかを自分の目で見届けてゆくことに目的があるのです。
こうして時間をかけ作品に寄り添った制作の中には無駄や失敗も多々あるのですが、時に魅力的な気づきとなって返ってくることもあり、それを知ることは今後の作品制作に大切な要素になってくるはずです。

少しだけ例をあげてみましょう
メダルド・ロッソとコンスタンティン・ブランクーシという2人の芸術家は、今回のように彫刻を撮影することからインスピレーションを広げています。
前者のロッソは肖像彫刻をつくる時に顔の輪郭に限る(境界を無視できない)と言って、自身の彫刻を絵画のような写真におさめたり、写真の中の彫刻に映った陰影を実際の造形に反映させたりと実験を繰り返しています。そこから陰影に溶けてゆくかの様な独特のフォルムが生まれ、蜜蝋という素材を扱うことに繋がっていったのです。

*ロッソ《夜のパリ》《ユダヤの少年》ロッソ

後者のブランクーシもまた自身の彫刻制作スタジオの風景を自らの写真に焼き付けています。
時に写真の上にデッサンをおこなったりして構想を具体化させて石の直彫りを行っていますが、代表作の空間の鳥や無限柱はその実体以上に彫刻を取り巻く世界の光や影を実体に映しだすことによって、時間の推移を感じさせる作品に繋がっていきました。

*ブランクーシ《ナンシーキュナードの肖像》《トゥルグ・ジュの無限柱》ブランクーシ

これらは写真技術の発達をみせた20世紀の彫刻家の一つのプロセスですので、現代はまた違った作品と作家のやり取りがあると思いますが、今回の首像ワークショップも鏡に映る自分の姿を三次元に置き換え、それを写真という二次元にまた引き戻す、その双方を行き交う中でくみとられるものあるはずです。観察をとおして、その時の表情や感情の変化を感じることもまた制作が常に一定ではないということを体感できるのではないかと考えています。

講評会では
最終形の作品と自分だけが知りうる制作過程のギャップに戸惑っていた様子も見受けられましたが、実はこのズレへの気づきもまた今後の作品制作の基盤となって来るかも知れません。
素材を扱いながら起らないと思っていた想定外のことが起った時、それに理由づけをすることがここにあるプロセスにみる彫刻的な創造の一つと言えるのです。
講評後には作品を持ち帰りたいという話が出ていましたが、持ち帰りは困難でしたので結局壊すことになりました。ですが作品とのやりとりの結果所有したいという欲求が生まれたのだとしたらとても嬉しいことです。

だいぶ長くなってしましましたが、今回の記事ではこのような目的でワークショップをつくっているということが伝えられたらと思って書きました。
これから美大に行きたいと思っている方には、むずかしいな?と感じさせてしまったかもしれませんが、実際の授業はもっとにぎやかでゆったりと対話をするようなかたちで行ってますのでこれから先端科にくる予定の方もご安心下さい。
今回のワークショップは彫刻科や教材係の材料提供や事前準備によって充実した制作環境をつくることができています。これも新美の連携からなる先端科の授業展開と言えるでしょう。

夏期講習後期はゲストアーティストによるワークショップを予定しています。
引き続き先端科の報告楽しみにしていて下さい。

【先端芸術表現科 夏期講習について】

今週末から、夏期講習会の前期がはじまります。
夏期講習は、受験への本格的な対策のスタートです。
前期後期の様々な授業を通して、先端科受験に必要なことを網羅し、
実力をつけるための重要なカリキュラムだと言えるでしょう。
HPやパンフレットなどでは、前期を「一次対策」、後期を「二次対策」と
表記していますが、「前期と後期、両方の受講は難しい」という声も多く、
そのため、できる限り柔軟なカリキュラムで対応できるようにしています。
前期であっても、面談などの個人指導を通じて「個人資料ファイル」や
「総合実技」の対策などを行なっていきますし、また後期であっても、
希望さえあれば、一次対策のための授業も受けることができます。
また、前期は「素描クラス」と「小論文クラス」に分かれて受講するように
なっていますが、この時期はまだ、素描と小論どちらのコースを受講するのか
悩んでいる生徒も多くいます。
もし、まだ素描か小論文を決めかねているのなら、両方を受講できるように
調整することは可能ですので、ぜひ相談してみてください。
一度、両方試してみて、じっくり考えてみましょう。

「素描」と「絵画」

先端表現芸術科です。今回で2回目の更新です。

前回は、新美先端コース全体の方針について書きましたが、今回はもう少し具体的に、授業内容について触れていきたいと思います。

先端の一次試験は、「素描」か「小論文」のどちらかを選択することになっています。なので、新美の先端コースの平常授業は、「素描クラス」と「小論クラス」の2つに分かれて行なっているのですが、今回は、「素描」について説明していきたいと思います。

「素描」とは、いわゆる「デッサン」のことで、基礎的な部分の技術については、他科のデッサンと同じです。形の取り方や鉛筆の使い方なども、先端だからといって特別な必勝法があるわけではなく、他科の生徒と同じように基礎を身につけ、その上で個性を磨いてゆく必要があります。

とはいえ、やはり最終的な評価基準となると、他科とは多少異なってきます。

たとえば、これまでの先端の過去問題を見てみると、単に「モチーフを素描しなさい」という指示だけでなく、目の前に存在しないものを描かせたり、特殊な状況を設定したりと、受験生の想像力や解釈を引き出そうとする問題を課していることがわかります。
では、これらの特殊な問題にどのように対応してゆけばよいでしょうか。

そのための対策として先端コースでは、基礎力を養う素描課題と並行して、「絵画」という表現そのものについての理解を深めるための授業を行なっています。以下で、その一例を紹介しましょう。

まず、授業のはじめに、2時間ほどある映画を一本、全員で鑑賞します。

映画鑑賞後、いつも通りの画用紙と素描道具を準備し、さっき鑑賞した映画をモチーフとして素描をする、という課題です。

……つまり、2時間の映画全体がモチーフとなるのです。映画はすでに見終わっているので、目の前には何もありません。自分の記憶だけが頼りです。

さらに、映画には「時間」という要素が関わってきます。どこかのワンシーンだけを抜き取って描いたり、登場人物を並べて書いただけではポスターや設定資料のようになってしまいます。そうではなく、2時間分の映画の内容を、自分の中で解釈し、一枚の画面へギュッと圧縮して表現しなければなりません。

みなさんなら、どのように描くでしょうか。

このブログはオープンな場所ですので、生徒の参考作品をあげて解説することはできませんが、このような課題に対する考え方のレッスンとして、少しだけ絵画のお話をしておこうと思います。

先ほど、映画には「時間」の要素が関わってくる、と書きましたが、実は絵画の世界で「時間」をどのように描くのか、という問題は、とても古くから考えられていました。

美術史家として大きな功績を残したエルンスト・ゴンブリッチという人は、この問題について実にわかりやすく、おもしろい研究を残しています。関係しそうな議論を少しだけ紹介しましょう。

まず下の絵を見てください。

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この絵は15世紀末にドメニコ・ギルランダイオという画家によって描かれた《洗礼者聖ヨハネの生涯》フレスコ画です。そのタイトルの通り、聖ヨハネの生涯における重要な場面が、いくつもの画面に分けて描かれています。

「聖ヨハネの生涯」というモチーフは、当然ながら、その始まりから終わりまでの「時間」を持った物語です。ギルランダイオは、その物語をひとつの壁面に描くために、壁面を分割し、重要な場面をピックアップして並べていったのです。

ギルランダイオの取ったこの解決策は、私たちの感覚からすればそれなりに妥当なものだと思えるでしょう。しかし、ひとりの画家が、ギルランダイオのような描き方を激しく非難しました。

その画家とは、かのレオナルド・ダ・ヴィンチです。

ギルランダイオと同時代に生きていたレオナルドは、ギルランダイオのように異なる場面を上下に積み重ねたり、並べて描いたりする描き方を、「鳩小屋のようにいろいろな棚を重ねて商品を並べる店みたいだ」と言い、「愚かさの極みだ」とまで言って断罪しています。

なぜレオナルドは、そこまで怒りをあらわにしたのでしょうか。

その理由を知るためには、レオナルドが考える「絵画の理想」について知らなければなりません。

レオナルドは、壁面に描かれる宗教画は「1壁面、1空間、1場面」の法則に従わなければならない、という強い理想を持っていました。つまり、1つの壁面には1つの空間しか描いてはならず、したがってそれは1つの場面を描くということになります。

なぜそんな法則を考えたのかというと、レオナルドの考える絵画の役割とは、現在の私たちの言葉でいうところの「感情移入」だったからなのです。

つまり、その壁画を前にした鑑賞者が、あたかも目の前でその場面が行なわれているように感じ、自分もその物語の中に入り込み、その瞬間に立ち会っているのだ、という臨場感を与えなければならない、という理想です。

そのレオナルドの理想を、おそらく大変な苦労をして実現しようとした作品のひとつが、有名な《最後の晩餐》でしょう。

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厳密な遠近法によって描かれている以上、鑑賞者が、絵に対してどの位置で眺めるかという条件に大きく左右されてしまうのが欠点ではあるものの、正確な位置に立って鑑賞すれば、その臨場感は当時のどの画家も及ばないレベルだったはずです。

そう考えると、なぜレオナルドがギルランダイオのような壁画を非難したのかがよくわかります。壁面を細かく分割して場面を重ねてゆく描き方は、たしかに物語の全容を詳細に描くことはできるけれども、鑑賞者に対して強い感情移入を促すかといわれれば、それは疑問です。この画風は、目の前にその場面を再現する、というよりも、どちらかといえば絵を文章のように扱っているため、視覚的な臨場感は犠牲になりがちなのです。

しかし、レオナルドの「1壁面、1空間、1場面」の法則にも、致命的な欠点がありました。下の絵を見てください。

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このカオティックな絵は、レオナルドの弟子であるベルナルディーノ・ルイーニの描いた《ゴルゴタの丘》という壁画です。

ベルナルディーノは、レオナルドの「1壁面、1空間、1場面」の法則を忠実に守っています。しかし、だからこそ、画面がどうにも収拾のつかない混沌に突入していることがわかります。

《最後の晩餐》のように、1壁面のなかにスッキリとおさまるエピソードならまだよかったのですが、この《ゴルゴタの丘》のように複雑な場面を「1壁面、1空間、1場面」の法則で描こうとすれば、必然的に画面の密度は上がり、ひとつの画面に収めるのは難しくなってきます。

もちろん、この壁画の作品としての魅力は十分にあると思いますが、少なくとも、彼らの理想であるところの「感情移入」やその場にいるような臨場感は消えてしまっています。見ようによっては、あれほど非難していた「鳩小屋のような商品棚」に近づいているとも言えるかもしれません。

……さて、ここまでがゴンブリッチが分析している事例の一部です。

上の3つの絵を見て、そして解説を読んで、みなさんはいろいろなことを考えたと思いますが、ひとまずここで、みなさんに理解してもらいたいのは、絵画には様々な「理想」があり、それによって方法も様々である、ということです。

ギルランダイオとレオナルド、どちらの「理想」が優れていたか、という議論はここではいったん脇においておきましょう。それよりも、ギルランダイオとレオナルドが、それぞれ別々の「理想」を持ち、そしてその「理想」を実現するために独自の「方法」を開発し、その違いがはっきりと作品に反映されている、ということが重要なのです。

最後に、いくつかの絵を紹介して終わりたいと思います。

たとえば、下のような絵画を見たことがあるでしょうか。

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この絵は、16世紀の画家ピーテル・アールツェンの描いた《マルタとマリアの家のキリスト》という作品です。

一見したところ静物画に見えますが、タイトルが「これは宗教画だ」と主張しています。この絵では、肉や花といった静物が、まるで言葉のように配置されています。乱雑に見えながら、実は周到に配置された静物と奥の場面の関係は、鑑賞者に向かってまるで暗号を解かせるかのように、この絵を読解することを要求しています。

あるいは下の美しい風景画。

09 THE CITADEL OF ARCO IN THE SOUTH TYROL

なんの変哲もない風景画に見えるかもしれませんが、重要なのはこの絵が描かれた時代です。この絵の制作年は1495年。有名な画家、デューラーによって描かれました。

さっきこの絵を「風景画」と言いましたが、実は1495年当時には「風景画」は存在していません。どういうことでしょうか。

西洋絵画史において、絵画のなかの「風景」というモチーフは長らく、「宗教画の背景に描かれているもの」という位置づけでした。あくまでも絵画の主役は、聖書に記された「物語」とそこに登場する聖人たちであり、「風景」は付属物に過ぎなかったのです。「風景」というモチーフだけを独立させた「風景画」というジャンルがはっきりと成立するのは、17世紀に入ってからだとされています。

つまり、このデューラーの絵は、「風景画」という概念が誕生する100年以上前に描かれているのです。

もう一度よく絵を見て見ましょう。後に描かれるれっきとした「風景画」に比べて、どこかぎこちなく、不思議な雰囲気を湛えているのが感じられるでしょうか。

当時のデューラーがどのような考えでこの「風景画」を描いたのかはわかりませんが、まだ誰も描いたことのない新しい表現の世界に触れた瞬間の緊張が、この絵に刻まれているような気がします。

絵画のあり方はひとつではありません。

自分にとって絵画という表現は何なのか? その解釈によって、絵画の意味は様々に変わってくるはずです。

先端コースの「素描」が最終的に目指していること、それは、生徒それぞれが、自分にとっての絵画の意味を見出すことなのです。

 

 

 

 

 

 

 

先端芸術表現科の紹介

 

はじめまして、先端芸術表現科です。
これから隔週の日曜日、つまり月に2回のペースで、更新していく予定です。
ここでは、先端芸術表現科のことをもっと知ってもらえるように、授業のことや、私たち講師陣が考えていることを書いていきたいと思います。

ご存知のように、一般大学の入試と比べて、美大芸大受験は非常に特殊なものです。
そして、そのなかでも先端芸術表現科は、さらに特殊なところです。

先端表現科の入試では「個人資料ファイル」の提出が義務づけられています。
「個人資料ファイル」とは、自分の作品についての記録・資料や解説などをまとめたもので、簡単に言えば、あなたの「作品集」を提出する、ということになります。

つまり、新美の一年間で「作品集」ができるくらいの「作品」を制作する、ということなのです。おそらくこの点が、最も他科と異なる特徴だと思います。
入試の時点で、実技だけでなく「作品」も評価する、ということはつまり、あなたのことを「作品をつくる人」=「アーティスト」として見る、ということを意味しています。
もちろん、予備校の一年間で急に「アーティスト」になれるわけではありません。あくまでも、その素質、可能性を判断される、くらいに理解しておくとよいでしょう。
受験生が何を考え、何をやってきたのか、そしてこれから何をやろうとしているのか……そういったことを「個人資料ファイル」から読み取りながら評価してゆくのです。

したがって、新美の先端表現科では、一次試験の実技(素描と小論)と並行して、作品制作についての授業を重要視しています。
予備校の段階でいきなり作品制作に重点を置くという教育方針について、疑問の声が投げかけられることも多々あります。たとえば、「デッサンという基礎をおろそかにしたままでアーティストのマネゴトをさせるべきではない」「基礎がなけば応用も実践も無い」、といった意見は今もよく耳にします。

確かに、そういった主張は真っ当なものだと思います。デッサンを中核とした日本の美術教育は非常に高いレベルにあり、予備校の1?2年間にデッサンを集中して訓練することで得られる能力や感覚、考え方はかけがえのないものです。

とはいえ、すべてのアーティストにとってデッサンが基礎になるかと言えば、その限りではないでしょう。もちろん、多くの受験生にとってはデッサンが基礎であるべきだと思いますが、中には例外も存在するのです。実際に、現在国内外で活躍するアーティストを見渡してみれば、彼らの基礎となっている能力は実に様々です。ある人はシステムエンジニアの技術が基礎であったり、またある人は医学の知識が基礎であったりするのです。

先端表現科は、そのような例外的な才能を見落とすことなく、むしろその特殊性を活かした能力を育てることに力を注いでいる、といっても過言ではありません。

それから、これが最も重要なことなのですが、新美の先端表現科はけっして孤立したクラスではなく、他科との緊密な連携のなかで成り立っている科だということを知ってもらいたいと思います。
先端表現科の生徒であっても、個別指導のなかでもっとデッサンの特訓が必要だと判断すれば、空いた曜日に基礎科や油画のクラスを受講することを勧めますし、必要があれば他科の先生方とも面談をさせています。
つまり大切なのは、日々の授業のなかで、生徒それぞれの「適正」を観察することであり、必要なときに必要な技術を指導することができる、新美内での密な連携なのです。

今回は先端表現科の第一回目ということで、少し抽象的な話をし過ぎたかもしれません。
次回からはもう少し踏み込んだ話ができればと思います。

さきほども書いたように、一般大学の入試に比べれば特殊な美大芸大入試のなかでも、さらに特殊なところが先端表現科です。
もしかしたら、先端表現科を目指そうと思っている受験生のみなさんは、その特殊さ故に孤独を感じたり、コンプレックスを抱えたりしているかもしれません。
このブログが、そんな受験生のみなさんひとりひとりにとって、前に進むためのヒントになり、励みになることを願いながら、書いていこうと思います。