大学通のイチョウもようやく色づき始めました。
新宿校では毎週 公開実力コンクールが行われています。
国立校の学生も積極的に参加しています。
先日の東京芸大デザイン科のデザインⅠ(色彩)では、国立校のM君が
全体の6位(高3生1位タイ)の好成績を挙げました。
他の学生も健闘しています。
今週は東京芸大工芸科と多摩美グラフィックデザインが行われます。
入試に向け、今の実力をしっかり出し切れるよう頑張りましょう!
大学通のイチョウもようやく色づき始めました。
新宿校では毎週 公開実力コンクールが行われています。
国立校の学生も積極的に参加しています。
先日の東京芸大デザイン科のデザインⅠ(色彩)では、国立校のM君が
全体の6位(高3生1位タイ)の好成績を挙げました。
他の学生も健闘しています。
今週は東京芸大工芸科と多摩美グラフィックデザインが行われます。
入試に向け、今の実力をしっかり出し切れるよう頑張りましょう!
お久しぶりです!彫刻科の小川原です。さて、今年も残すところもう2ヶ月無いんですね。時が経つのは早いな?と実感させられます。
1学期は基礎力の拡充!
夏期講習は一気に経験値を稼ぐ!
で、2学期は何かと言うと「作品追求!」これに尽きます。これまで学んできた事で、かなり多くの事が出来るようになってきているはず。その分落ち着いて作品と向き合い、さらに良くしていく事についてじっくり考えられるようになっているのではないでしょうか?冬期講習からはもう実戦に向けての最終仕上げに入っていきます。なので腰を据えて作品を研究できるのは今のうちです。抜かり無く自分の作品の方向性を見極めていって下さい。
それではこれまでの優秀作品を紹介します。
自刻像
2日制作課題でしたが、ほぼ1日でこの状態にまで持ってこれていました。完成度が高く、良いと思います。この先の作品のビジョンがしっかり持てるようになると、同じ時間でもさらにレベルの高い作品が目指せるようになるはずです。髪の表現はもう一つ研究を深めたいところです。
頭部の表現がとても良いです。ちまちま細部に走っている訳ではないのに、しっかり端々の表情が作れているし、全体を一つとしてみたときのまとまりも良いです。逆に首、肩、胸が曖昧になってしまっていて、作品の説得力を壊してしまっているのがもったいないです。
素描、両手。木炭紙にコンテ。
T.U君の作品。
夜間残って自主的に仕上げた作品です。コンテは最近使い始めたばかりですがすでにモノにしたようですね。さすがです。指一本一本のクオリティがさらに高まると尚良いです。
片腕
H.Iさんの作品。
非常に丁寧に形が探れていて、強いリアリティを感じる事が出来ます。切断面をあえてすっきりさせたのも、他の部分との兼ね合いとしては正解だったと思います。
Y.T君の作品。
力強い筋肉の表情がリアルに表現できています。筋肉を作る時、筋肉の方向ばかり探ってしまうと変に表面的で筋っぽくなり、つたない表現に見えてしまいがちですが、輪切りの断面方向に形を探る。という事がしっかり理解できてとても良い作品に仕上がりました。
T.F君の作品。
こちらも力強い男子の腕っぷしが良いです。張りのある表現に魅力的があります。手のポーズはもう少し変化のある魅力的なものが探せるといいです。
F.Tさんの作品。
全体での動きに連動感があり、自然な表現が出来ていると思います。特にマイナス印象なところは無いので、もっと早い時間帯からどんどん攻め込んで、仕上げてしまった状態からさらに追求の1手が入れられるようになると良いです。
ラオコーン
A.Sさんの作品。
体の表現が魅力的です。光から陰への無理矢理感の無い自然な変化が深い探りとともに表現できているのが素晴らしいです。頭部はやや描写に走った部分があり、立体感が弱まってしまっているので、ごちゃごちゃしているところも出来るだけ整理し、それを大事にしながら描き進められるよう努力してみて下さい。
ガッタメラータ
H.Iさん。(現役生)
素晴らしい内容です。粘り強い作業の積み重ねが強い説得力となって作品に魅力を与えています。
後頭部はやや色がつぶれてしまっていますが、マイナスにはならないところまで持ってこれているので、次回からまたこの問題が克服できるように頑張ってみて下さい。
Y.T君の作品。(現役生)
形の精度が高く非常に似ているのが魅力です。回り込みの処理が甘く、奥まっていく空間性が弱いものの、手前に引き出す強さがあるのでぎりぎり持っていると言えます。あとは単純に技術を高めてくれれば良いです。
石膏像床置き。ブルータス
K.S君の作品。
全体を包み込むように大きく捉え続けていたのが印象的でした。全体が見渡せているので外しが無く、安定して完成まで持ってこれました。非常に頼もしいです。
ジョルジョ
R.Y君の作品。
これまで課題であった、画面にピントを合わせる。という事が少しずつ出来るようになってきました。顔と首のつながりに関してはもう少し自然に出来たら良かったです。とは言えやはり安定感のある作品だと思います。
ガッタメラータ
Y.M君の作品。
序盤からしっかり完成をイメージして作業が積み重ねられたように感じます。モチーフを「石膏像」として、そして表現を「石膏デッサン」として型にはめるのではなく、あくまで静物もチーフとして丁寧に観察し、描写する姿勢に好感が持てます。
ジョセフ
T.U君の作品。
とにかく上手いです。デッサンもしっかりやりきるとこんなに描けるもんなんだなと改めて実感させてもらったように思います。これからも自信を持って突き進んで下さい。期待しています。
ラオコーン
H.Iさん(現役生)の作品
ラオコーンの躍動感溢れる動きが良く出せています。炭使いはまだまだつたないところがありますが、粘り強い観察と描写に好感が持てます。炭の扱いに関しては、感覚的に動かしていくだけでなく、作業の重ね方によってどのような効果が出せるかいろいろ試してみて引き出しを増やしてみて下さい。
さて、どうでしたでしょうか?実は裏課題で、皆が自刻像と手を取り組んでいる時に一部の人には自刻像(トルソー)に挑戦してもらいました。その作品は来年度パンフレットに掲載予定なので楽しみにしていて下さい!
2学期も後半戦に入りますが、この時期公開コンクールがあったり、入試も近づいてくるので周囲のレベルと自分の作品を比べてしまい、それが気になって作品に乱れが出てしまう人も多いです。そんな人に一つアドバイス。「そんなの気にする必要ないですよ?。」
もちろん入試を乗り切るに当たってどの程度のレベルで合格できるのか、という水準を意識するのは当然の事なのですが、大抵の場合、周りを意識してしまっている人はその水準のトップグループより先のレベルの事は考えていないと思います。
僕が何を言いたいのかと言うと、「受験で合格できる目安」にばかり目が行ってしまい、本来目指すべき、本当に魅力的な、あるべき作品の姿が見えなくなってしまってはいけないという事です。もし、あなたが芸大に合格したい、と思うなら、「受かるレベル」を追いかけるだけではダメです。「こう描けば評価されるんでしょ?」を元に表現されたものは本人の美的実感を伴わない表面だけで、中身の無い作品にしかならないのです。まずは自分の作品としっかり向き合い、足りないものがあるなら一つ一つ焦らず埋めていきましょう。その上で、上限を定める事無く常に表現の可能性を見極めていって欲しいです。何事にも通じる事ですが、その道のトップを切り開いていく人は周囲のレベルなど気にしていないはずです。常に先を見据えて突き抜けていくからトップになれるのだと思います。そのくらいの気持ちがあって、やっと勝ち取れる合格なのです。
頑張りましょう!応援しています!
次回、彫刻科は11月25日(火)に氷室先生による更新です。お楽しみに!
こんにちは。油絵科の関口です。
今回は先日行われた公開コンクールについて書こうと思います。今年は開催期間が例年より遅かった事もあり、新美生だけでなく、全国から大勢の受講生が参加してくれました。
ではまずは11/2(日)?3(月祝)に行われた絵画表現・油画から。
課題は「直線と曲線と」という、モチーフの無いイメージ課題でした。今回は夜間部の井戸川先生の出題です。
“資料等の閲覧禁止”という実践さながらのルールの中、受講生は自分なりの直線と曲線のイメージを見せてくれました。講評の時、一人ひとりどんなイメージを持って描いたのかを聞いていきましたが、順位とは関係なく、それぞれの考えたイメージはとても面白く、興味深いものが多かったです。
こちらは上位受賞者です。ちなみに1番は高3の新美夜間部生でした。おめでとうございます。
次に11/9(日)に行われた素描です。
課題は木製の立方体を与え「与えられた立方体に穴があいた状態を想定し素描しなさい」というものでした。条件として“実際のモチーフは加工しては行けない”という事と“穴は他の面に貫通していることを想定する事”を課しました。こちらの出題者は僕です。
素描もどんな事をイメージして描いたのかを聞いていきましたが、やはり人それぞれに色んなイメージを持っている事が分かり、とても面白かったです(油画も素描も一人ずつイメージを聞いていったので、講評の時間が遅くなってしまいましたね。申し訳ありませんでした)
こちらが素描の上位受賞者です。素描も高校3年生が1番でした。スゴいですね。本当におめでとうございます。
ちなみに今回の公開コンクール、普段一緒に組んでいる先生同士ではなく、全体的に珍しい組み合わせにしてみました。僕自身も油画の時に松田先生と15?6年ぶりにコンビを組みましたし、素描の時の箱岩先生と山本先生は「自分たちでも意外だったけど、18年やってきて初めてコンビを組んだ!」と言っていました。
あと海老澤先生と鷹取先生のコンビも初です。全部は書きませんが、実は他にも結構レアな組み合わせが満載だったんですよ。
普段講師室でよく冗談を言ったりしていて、先生同士の仲は良いのですが、こういう機会は滅多にないので新鮮な気持ちで講評に挑めた、という人も多かったようです。
受講した皆さんも、我々講師陣も、新たなる気持ちで明日からまた頑張りましょう!!
こんにちは!
基礎科では先週から専門課題が始まりました。
デザイン課題では、受験科の滝口先生による特別講義が行われました!
プリントを使って、構成の説明や、
画材の説明、アクリル絵の具を使った様々な表現方法など、
デモンストレーションも交えながら、分かりやすく説明していただきました。
みんな真剣に聞いていますね。
参考作品や合格者の再現作品を間近に見ながら、良い刺激になればいいなと思います。
参考図書もたくさん!
かっこいいデザインを沢山見て、今回の課題も良い作品に仕上げてください?!
こんにちは、映像科講師の百瀬文です。
今回は受験のプレッシャーで日々疲弊している皆さんのせめてもの息抜きになればと思い、漫画家・高野文子のことについて書いてみようと思います。
すでに2002年の『ユリイカ』では大々的な高野文子特集が組まれており、何をいまさら感はあるのですが、自分なりにちょっと「ここがそそる!」というポイントをつらつらと書き連ねてみようと思います。というのも先日、高野文子の12年ぶりの新刊『ドミトリーともきんす』が発売されたからなんですね。
私もようやくこのあいだ立川のオリオンパピルスに走り込んで手に入れてきました。
(余談ではありますが、今年は大島弓子も新刊を出し、池田理代子先生に至っては40年ぶりに『ベルばら』の最新巻を出すという漫画界にとってはとんでもない年であります)
1980年代初頭に「漫画界のニューウェーブ」として注目を浴び、デビュー30年で単行本6冊という寡作なスタイルにもかかわらず以前として根強い支持を誇る高野文子ですが、高校生である皆さんにとっては、もしかしたら初めて知ったという人も多いのかもしれません。しかし「高野文子なる遺伝子」を積極的に取り込み更新を続けている漫画家は少なからず存在しており、高野文子作品を知らなくてもそういった作品とおそらく一度は皆さんも出会っているのではないかと思います。ぱっと一番に思いつくのは、今月刊アフタヌーンで『宝石の国』を連載している市川春子などでしょうか。
今回私は「高野文子の漫画はなぜ本のかたちをしているのか」という、一見当たり前やんけというようなタイトルをつけました。おそらく、漫画が漫画として目に飛び込んでくる前に、まず必ず「本の形態をしている」という純然たる事実に対して、ここまで独自のこだわりを持って向かい合っている作家は高野文子以外にいないのではないかと思います。
しかしいったんここではその話は置いておいて、私がいちおう映像科で教えている人間ということもあり、映画と漫画の関係性について考えていくことにしましょう。
1. 映画/漫画の文法
フェデリコ・フェリーニをして「いつも考えていたのは漫画のことだった」と言わしめたように、映画と漫画の間には切っても切れない関係がいくつもあります。
たとえば映画ならカット、漫画ならコマ割りになるわけですが、どちらも異なる時間軸をつなぎ合わせて、連続して見たときにさも「かつてそこにそのような時間が流れていた」ことをあらわすことが出来るというような点です。
たとえばここに、《顔を上げた女性の顔》の映像/コマがあったとしましょう。
そして次の瞬間に、《朝焼け空に浮かぶ飛行機》の映像/コマがあったとします。
あなたは今、この女性が飛行機を見つめていたと、そんな想像をしませんでしたか?
実際のところ、その朝焼け空が本当に彼女が見上げていた空だったのか、私たちには確かめることはできません。
それは別に1年後とかの、彼女と何の関係もない場所の朝焼け空でもいいわけです。実際上の2枚の画像も、それぞれ別のフリー素材サイトから私が適当に拾ってきた画像です。
私たちはそのような「時間軸がある慣習に沿って縫い合わせられたもの」を見ると、まるでそれがはじめからひとつのタイムラインであったかのように錯覚してしまいます。この慣習こそが映像/漫画を読むための文法なのであり、私たちは幼い頃から「そう見るように」無意識の訓練をしてきたのです。
私たちがこの仕組みを意識しながら映画や漫画を見るという事はなかなかありません。映画をいちいちカットとカットのつながりとして認識していたら、とても物語に没入できないからです。
ですが、「漫画の読み方がわからない」という人はたまにいます。うちの母親がまさしくそうで、どうやら単純な4コマ漫画なら読めるらしいのですが、最初はまったく言ってる意味がわかりませんでした。これも同じく訓練の問題です。彼らには漫画というものがどのように見えているのだろう、コラージュされた絵のように見えているのだろうか?などとその都度いつも考えさせられます。
映画においてモンタージュという技法が確立され、カットとカットのつなぎが意図的な意味を付与するものとして認識されてからもう何十年も経ちます。
まだまったくそんなことが知られていない時代、偶然誰かがフィルム同士をいじってつなげてみた瞬間、人々はそこにいったいどんな光景を見つけたのでしょう。
高野文子の漫画にはっとさせられるのは、すでにそのような「文法を掌握したはずの私たち」が、まるでその文法に支配される以前の状態に放り出されたかのような気持ちになるからではないか、と私は最近考えています。
歌人の穂村弘も「週刊文春」10月16日号の中で、ほぼ似たようなことを言っています。
「高野文子の作品を読む時はいつも緊張する。『漫画を読む』という行為そのものの見直しを迫られるからだ」
なるほど、それは漫画を手に取りながら同時に「漫画を読んでいる自分」というものを強く意識させられるような、そんな感覚と言ってもいいかもしれません。今からその体験を具体的に追いかけてみましょう。
2. 私もまた本を読んでいる
高野文子作品の特徴として、よく作中に「本を読んでいる人」「空想している人」が出てきます。
それを最も強い形でモチーフとして前面に押し出しているのが、『黄色い本』(2002)という作品です。
北の地方の田舎で暮らす女子高生・ミチコは、ある日学校の図書室でロジェ・マルタン・デュ・ガールの『チボー家の人々』を借り、家や学校でそれをゆっくりと読み進めながら、やがて登場人物であるジャック・チボーの姿に自分を重ねていきます。
ひとりで本を読むときのあの没入感というものは誰でも経験があるかと思いますが、この作品では終始「いかにして没入状態を表象するか」ということが様々なやりかたで描き出されています。
たとえば上のページの下段のコマの表現などです。本を読むには「音読」と「黙読」のふたつの方法があるわけなのですが、ミチコは黙読で本の中のジャックの台詞を読んでいます。それにも関わらず、本来静寂が訪れているはずのシーンには破裂した吹き出しが描かれ、まるでその空間にミチコの声が大きく鳴り響いているかのように描かれています。
同時にこの声はジャックの声でもあり、ミチコが空間─もしくはミチコの頭蓋骨の中─に響きわたるその声に集中して耳を傾けているかのようにも見えます。
しかしふと立ち戻って考えてみると、私たちが本を黙読するとき、その文字たちはどのように頭の中に届くのでしょうか。おそらく、私たちもこの上段のコマに「描かれた」ページ上の文字をミチコと一緒に追いながら、頭の中で何者か(≒自分)の声で再生されるのを聞いているのではないでしょうか。
3. ゆらぐ「読者」の立ち位置
引き続き『黄色い本』を見ていきます。ミチコはある晩テレビで放送していたフランス映画を偶然目にし、その俳優の姿をジャックのイメージに重ねます。
この時からミチコの生活空間の中に空想上の存在としてのジャックが地続きに現れるようになるのですが、この1ページ目下段部のコマにある初登場時のジャックの「何をしているの」という台詞が、まるでさっきまでミチコが観ていた映画がまだ続いているかのように白い字幕であらわされているのがとても印象的です。
この瞬間、すでに私たちは「ジャックと話すミチコを見ている」のではなく、今自分がまさしく手にとっているこの本を通して「ジャックと見つめ合っている」ことに気づきます。
一気に物語の当事者にされることで、逆説的に「さっきまで自分は安全な『読者』という特権的な場所にいたのだ」という事実が、急に目を覚まされた身体の感覚とともに立ち上がってきます。穂村弘の言うところの緊張感とは、この物語が一瞬ほどける感じに通ずるのではないでしょうか。
さっき紹介したような映画的な文法にそのまま乗っ取って見るならば、このシーンはそのままミチコが自身の目で見た視界として安心して眺めていられるはずなのです。
しかし、私たちはすでにこの「映画字幕」という表象すら、日常生活の中で映画におけるひとつの「文法」として学習してしまっている。
このコマはまさしく私たちに馴染み深い「画面」そのものとして私たちの前に立ち現れます。
次のページでは、ミチコが机の上でクリップで止めたページを愛おしそうにめくっているコマの上にジャックの「クリップがとめてあるのはなぜ」という台詞が映画字幕でかぶさっています。
普段、映画における俳優たちは、自分たちが映像内に存在しながら同時に自分たちの上にかぶさる字幕のことを意識することはできません。
つまりこの光景をミチコ本人が見ることはできないのです。しかし彼女はその自分が存在している空間を頭の中で思い描くことはできます。
このコマは、まるでミチコが空想の中で自分自身を映画の登場人物に仕立て上げているようにも見えますし、とても面白い構造を持っている画面といえます。そこでは絶え間なく視線を浴びせかける私たち(観客)の存在をミチコ自身が意識しながら、仄かなナルシシズムをたたえて画面の中に存在しているようにも見えます。
『黄色い本』というタイトルは、この作品のモチーフである『チボー家の人々』の実際に流通していたハードカバー本がまさに黄色い表紙だったことに由来します。
そうなると、この『黄色い本』という漫画そのものがまた同時に「黄色い本」であるということの意味がより鮮烈に浮かび上がってくるのではないかと思います。
そうです、私たちもまた、ミチコと同じように「黄色い本」を読んでいるのです。
4.いつの時代も問い直されること
ちなみに、このような「本自身が、自らが本であることを自覚している」漫画というもの自体は、べつに新しいものではありません。
これはヴィデオアートなどの世界にも言えることかと思いますが、まだメディアが内部で細分化しきらない黎明期の方が「そのメディアにしか出来ないことってなんだろう?」ということを考えることが多いのです。
下にあげたのは1960年の大友朗の『日の丸くん』という作品です。
(当時『日の丸』という名前の児童雑誌があったのでした)
ここでは漫画というものそもそもが黒いインクで印刷された「紙」であるということが、ユーモラスに描き出されています。作中で王様の後ろにスクリーンのようにかざされた白い紙は、同時に私たちがこの瞬間見て触っている「紙のページ」そのものでもあるのです。
ここでもまた「本自身が、自らが本であることを自覚している」という構造が生まれています。
ここで、せっかくなので先ほどちらっと触れた同年代の黎明期のビデオアートをご紹介しましょう。
これは、日本で『日の丸くん』が掲載されたのとほぼ同時期の60年代に、ナム・ジュン・パイクという作家が制作した『Zen For Film』(1962)という作品です。白い画面に何やらチラチラと黒くまたたくものがありますが、これは何も写っていない空白のフィルムに付着した細かな埃を映しているのです。
1960年代の西ドイツを筆頭に、世界各地でフルクサスという様々なジャンルにまたがった前衛芸術運動が巻き起こりました。この作品はその中で制作された『フルクサス・フィルム』という複数存在する映画アンソロジーの中におさめられた映像作品です。このアンソロジーに参加した作家は映画監督ではなくほとんどがアーティストであり、彼らは前述してきたような「映画の文法」からいかにして逃れるかということを様々なアプローチで実践していました。
また、その10年後の70年代には、パフォーマンスアーティストたちが自らの身体を積極的に映像の中に取り込みはじめます。これは、ヴィト・アコンチという作家の『Centers』(1971)という作品です。
画面の中央(Center)に向って、アコンチ自身が指を指しています。この場合、一見私たちがアコンチに指を指されているように見えるのですが、撮影現場でカメラと向かい合っているアコンチは、まるで鏡に向って自分自身を指差しているような状態とも言えるわけです。
ここまでスマートフォンにおける「自撮り」という行為が普及した現代においては、この作品もまた当時とは違った受け止められ方をするのではないでしょうか。
以上にあげたナム・ジュン・パイクの作品にも、ヴィト・アコンチの作品にも、『日の丸くん』と同じく「映像自身が、自らが映像であることを自覚している」という構造が生まれています。
高野文子の作品が新鮮なのは、毎回軽やかなタッチで情緒的な情景が描き出されているにもかかわらず、同時にこのようなメディア黎明期の原始的な「見ること/読むこと」に対する問題意識をひそやかに内包しているからかもしれません。
5.おわりに
それでは、冒頭に紹介した今回の新刊、『ドミトリーともきんす』について最後に少し触れておきましょう。
この本は実在の四人の科学者の著作をめぐる、これもまた「本の中で本を描く」話です。
この下宿屋「ドミトリーともきんす」に住んでいるのはまだ学生の姿をしている朝永振一郎、牧野富太郎、中谷宇吉郎、湯川秀樹の4人。語り部でありこの下宿屋の主人である「とも子さん」を通して、読者は彼らの言葉の断片に触れていきます。
科学の本であるということを意識し、作者が「あえて気持ちを込めないような線を描くけいこをした」と言うように、人物はいつもと雰囲気の違う均一な製図ペンで描かれ、全体的に静謐な印象を与えます。
私が中でも好きなのはプロローグのこのシーンです。
なぜこのコマにはっとさせられたのかというと、
この瞬間、手に持っていたページがまさしくこうなっていたからなのでした。
さて、延々とここまで高野文子の魅力を自分なりに書き連ねてきましたが、いかがだったでしょうか。
漫画というメディアに関わらず、なにかを作ることという上で重要なヒントになるようなことだったり、あるいは先人たちが長いこと積み重ねてきたような考えの系譜であったり、なにか皆さんがこれから先考えるきっかけのようなものを見つけてもらえたのならば幸いです。
是非書店で見つけたら、勉強の合間に読んでみてください。
それではまた!
百瀬文(映像科)
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画像:
『黄色い本』高野文子/2002/講談社
『ドミトリーともきんす』高野文子/2014/中央公論新社
『日の丸くん』大友朗/1960/サン出版