カテゴリー別アーカイブ: 油絵科

木炭デッサンと紙のお話

こんにちは。油絵科の関口です。ゴールデンウイークもあと2日。休みというのはあっという間に過ぎてしまうものです。皆さんも残りの休みを有意義に過ごして下さい。

さて以前も「木炭について」と題して書きましたが、今回は作例を上げながらデッサンについて書いていこうと思います。
以前のブログについてはこちらからご覧下さい。↓
http://www.art-shinbi.com/blog/20131118/

 

木炭デッサンギャラリー

OLYMPUS DIGITAL CAMERA これはスーラの石膏デッサン。日本の受験生のデッサンとはかなり違いますね。ちょっと硬いけどカッコいいですね。

 

ピカソ11歳これはピカソ11歳の時に描いたベルベデーレ。ちゃんと空間が描けています。これを小5?6年生くらいの子が描いた、と考えると恐ろしいですね。

レオナルド1495-1510これはレオナルド・ダ・ヴィンチの「聖アンナと聖母子」の為のデッサン。油絵とは構図や顔の表情もかなり異なります。油絵と比べてアンナはかなり老けていますが、マリアは抜群に美しい表情で描かれています。

 

マティス1910
これはマティスの初期を代表する「ダンス」の為のデッサン。描いては消し、描いては消し…を繰り返して、画面にどう収めるか?を探った跡が残っています。木炭は消しやすい素材なので、その特徴を最大限に生かした作品になっています。決して写実的な表現ではありませんが、躍動感に溢れる作品に仕上がっています。

 

スーラ、トロンボーン奏者1887
この作品もスーラのデッサンです。これは少し木炭紙っぽい目が入っています。
以前のブログで「木炭紙に描かれた素描を時間がある時に探してみます」という様な事を書きましたが、残念ながら殆ど見当たりませんでした。
この作品はどうやら木炭ではなく、コンテかクレヨンの様なもので描かれている様です。トロンボーンの辺りには白い描画材(何を使っているのかは不明)も使われています。

 

コルヴィッツ1933
これはケーテ・コルヴィッツのデッサン。(ちなみにコルヴィッツは女性作家です)この作品も紙は木炭紙っぽい目のある紙に描かれていますが、描画材は木炭ではなく、コンテで描かれています。

 

コルヴィッツ1905
こちらもコルヴィッツ。この絵も木炭紙に木炭で描いたように見えますが、実は銅版画です。

 

日本の受験では「木炭紙に木炭で描く」という行為は当たり前の様に行われていますが、どうやら世界的には珍しい事のようです。
安井曾太郎恐らく明治の後半から大正に掛けて、安井曾太郎がフランスのアカデミー・ジュリアンでデッサンを学んだ時、そこで使われていたのが木炭紙だったのではないか?と思います。そこで学んだデッサンの理念を日本に持ち帰った時に、併せて木炭紙に描かれる事も導入された可能性が高い、と僕は考えています。

今から20数年前、芸大油画専攻の試験が上野校舎ではなく、国技館で行われました。それまでは木炭紙だった試験用紙がTMKポスター紙になった時、フランスのMBM木炭紙のメーカー、アルジョマリー社はかなりの経営危機に陥ったのではないでしょうか。当時の芸大油画専攻の受験者数は2700人程度でした。一人あたり年間数十枚は買っていた筈ですから、数十万枚も急に売れなくなった計算になります。
数年前から再び芸大は上野校舎で木炭デッサンに戻りましたが、もしメーカーが潰れていたらどんな紙に描く事になっていたんでしょうね?

実は日本のメーカーが作っている「アトリエ木炭紙」なる紙も存在します。クロッキー帳にも目が入っている紙がありますよね?少し黄色味掛かったあれです。あの紙が厚くなったと言ったらイメージしてもらえると思います。ちょっと描いてみましたが、思ったより描きやすい紙でした。

 

木炭紙以外に木炭を使った事が無い人は、是非一度違う紙にもデッサンをしてみて下さい。世界標準を肌で感じる事が出来ますよ。

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さて、1月から4ヶ月に渡り、毎週月曜日にブログをアップしてきましたが、来週からは他の先生にバトンタッチして書いてもらいます。これからは4週間に一回のペースで僕に当番が回ってきます。毎週楽しみに読んで下さった方、4週間後にまたお会いしましょう。

バルテュスのマニアックなお話

こんにちは。油絵科の関口です。最近はかなり暖かくなってきましたね。

さて、上野の東京都美術館で開催されているバルテュス展はもうご覧になりましたか?今日はそのバルテュスについて書こうと思います。

若き日のバルテュス若き日のバルテュス(マン・レイ撮影)

実はバルテュスというのは本名ではなく、通称だそうで、本名は「バルタザール・クロソウスキー・ド・ローラ伯爵」と言います。フランスで生まれていますが、ポーランド貴族の流れをくむ家柄の伯爵で、由緒ある家系に育ったようです。
父親のエリックは美術史家、画家、舞台美術をやっており、母親のバラディーヌも芸術家だったそうです。兄のピエールは小説家として活躍していましたし、彼は画家(素描家)という側面もありました。

ピエールの作品
バルテュスの兄、ピエールの作品

以前、全く予備知識が無い状態で、ピエール・クロソウスキーという画家のデッサン集を見ました。「かなりヤバい感じの絵を描く人だな?」と思っていたら、後日バルテュスのお兄さんという事が判明し、ビックリした覚えがあります。(このブログに載せられるのはこれが精一杯です。どんな風にヤバいのか興味がある人は、是非検索してみて下さい)

ちなみにバルテュスは独学で絵を学んでいるそうですが、幼少の頃から実家にマティスやボナールがよく夕食に訪れたそうです。他にも作曲家のストラヴィンスキーやバレエダンサーのニジンスキー、詩人のリルケといった大物芸術家達も家を訪れていたようです。一般の家庭では考えられない様な幼少期を過ごしたに違いありません。

ところで、このバルテュスの展覧会、以前も東京駅のステーションギャラリーで見た事がありました。その時のカタログに書いてある年数を見ると、1993年とあります。あれから20年以上も経っているという事実にビックリしてしまいました。

今回の東京都美術館に於けるバルテュス展は、初期の作品やアトリエを再現したセットまで展示してあり、一見の価値はあると思います。

中でも初期の「夢見るテレーズ」は、良い作品だと思いました。頭上に乗せられた両手辺りのマチエールには、かなり苦労した跡が見受けられます。写真では分かりにくいと思いますが、何度も何度も描き直して、納得いくまで弄り続けないと、こういう表情にはならないのです。マチエールを付けようと思って出来たマチエールでは無く、自分の理想とする内容を追求した結果得られたマチエールなので、リアリティがあります。

夢見るテレーズ1938
バルテュス 「夢見るテレーズ 」1938年

個人的に面白かったのは、バルテュスのアトリエを再現したコーナーです。彼の使っていた筆や使いかけの絵具、顔料の瓶、パレット、椅子、イーゼル、作業着、描きかけの作品、絵具の付いた床…油絵を描いている人なら、一つひとつの痕跡から彼の制作していた姿が想像出来るのではないでしょうか?

それから、写真を見てバルテュスの使っている絵具のメーカーも興味を持ちました。ブロックス、レンブラント(ターレンス)、シュミンケ、マイメリ…愛用していた絵具からも彼の好みが分かります。

?あと、先程「独学で絵を学んだ」と書きましたが、それを実感できたのはアトリエに置かれたパレットです。パレットには描いている人其々の性格が出るものですが、ああいうパレットを見たのは初めてです。

パレットカタログに載っていたアトリエの写真。僕としては面白いものが沢山あります。

細かいところをじっくり見ていくと、面白さ満点です。皆さんもゴールデンウイークを利用して、見に行ってみてはいかがでしょうか?

 

名前について

こんにちは。油絵科の関口です。
新年度が始まり、初めて会う人が多いこの季節。まずは自己紹介をしますよね? すぐには名前を覚えられなかったりするので、間違えられることもあると思いますが、自分の名前が読み間違えられて、気分の良い人は殆んどいないと思います。

美術作家の名前も国によって色んなものがあり、日本語ではどう発音していいのか分からない(それによって間違った発音をしている)のが多いのも事実です。

黄道十二宮(ゾディアック) 1896Alfons Maria Mucha 「黄道十二宮(ゾディアック) 」 1896年
若い女性に大人気のこの作家、日本ではミュシャで通っていますが、彼の生まれたチェコではムハ、又はムッハが近いようです。ミュシャというのは、彼が活躍していたフランスでの呼ばれ方に近いみたいです。

反対に、我々日本人には普通でも、海外ではあり得ない名前だったり、うまく読んでもらえない事もあるようです。
例えば、僕の知っている作家さんで、下の名前が「正明(まさあき)」さんという方がいらっしゃいます。日本では普通の名前ですが、アルファベット表記だとMasaakiとなります。海外では母音が二つ続く事はないそうで、Masakiとaを一つ抜かして「まさき」さんにされてしまう事が多いそうです。日本では「まさき」さんという方も多くいらっしゃるので、本人的にはMasa-akiと表記して欲しいと、よくクレームを入れるのだとか。それはそうですよね。(ハイフンを入れないと、向こうの人には発音に困るのだとか。それでも大抵はマサーキと呼ばれるそうです)

そう言えば、昔こんな事もありました。僕が大学生の頃、同級生の富田君と一緒にイタリアに旅行に行った時の事。あるトラットーリア(レストランより庶民的な、日本で言うと定食屋みたいな存在)で、そこでは東洋人は珍しかったらしく、その店長のおじさんから名前を聞かれました。

富田君は自分の名前を伝えると、おじさんは笑いながら、いきなり「お前の名前はイタリアではDomenico(ドメニコ)と言う」と言い切りました(笑)。通常イタリアではaで終わるのは女性だけなんだそうで、男性はoやiで終わるのが普通なんだとか。例えばMaria(マリア)なら女性、Mario(マリオ)なら男性といった具合です。

僕の名前もSで始まるイタリアの名前に直されましたが、残念ながら…あまりに聞き慣れない名前だったので覚えられませんでした。

さて、そのおじさんはGiovanni(ジョバンニ)さんと言うのですが「俺の名前は日本では何と言うんだ?」と質問してきました。我々は「ジョバンニはジョバンニだ」と言いましたが、聞き入れてもらえず、仕方がなく「次郎(ジロー)」という純日本人的な名前を与えました(笑)。その後、家族全員の名前を強引に日本の名前に置き換えさせられ、楽しいひと時を過ごしました。最後にはお店の裏で肩を組んで一緒に写真を撮らせてもらいました。

?富田
左から真理(マリ、本名はMaria)さん、ドメニコ君、次郎(ジロー)さん。

何故こんな風になるのかと言うと、ヨーロッパでは同じ綴りでも言語によって発音が異なる事が多いのです。例えばMichelは英語ではマイケルですが、イタリア語ではミケーレ、フランス語ならミッシェル、ドイツ語ならミハエル・ミヒャエルになります。Georgeなら英語ではジョージ、イタリア語だとジョルジョ、スペイン語だとホルヘ、ドイツ語ならゲオルグ。Johnは英語ではジョン、フランス語ではジャン、イタリア語ではジョバンニ、ドイツ語ではヨハン、と言った具合です。(実際は綴りも国によって若干変化するようです)

アルルの跳ね橋1888Vincent van Gogh 「アルルの跳ね橋」1888年
この作品の作者、日本ではゴッホの名前で通っていますが、彼の生まれたオランダではゴッホと言っても通じません。日本語では発音する事が難しいですが、あえてカタカナ表記するならフィンセント・ファン・ホッホが近いようです。でも日本でホッホと言っても誰も分からないでしょうね?

Jan_vankmajer_II
Jan Švankmajer 
「アリス」1988年
日本ではヤン・シュバンクマイエルと呼んでいます。(チェコ語でどれ位近い発音なのかは分かりません)これは絵画作品ではなく、映像、アニメーション作品(実写とコマ撮りアニメのミックス)です。ちょっと気持ち悪いというか、ゾッとする様な世界観を持っています。自分はグロいものは全然平気、むしろ大好き?? という人は一度検索してみて下さい。日本でDVDも手に入ります。ハマる人はハマると思います。

宙.1965jpg
山口長男 
「宙」1965年
?この作家は、画商さんやプロの絵描きさん達まで「やまぐちちょうなん」と呼んでいる事が多いのですが、実際は長男と書いて「たけお」と読みます。この方は実際に山口家の長男として生まれたようです。

ちなみに6月29日まで、千葉県の佐倉にあるDIC川村記念美術館で「コレクション???リコレクション?VOL.?3??山口長男   コレクションは語る」と題した展覧会が行われています。完全抽象なので、一般人や絵を始めたばかりの人には分かりにくく、興味を持つ人は少ないかもしれませんが、僕は面白い作家だと思います。欧米で生まれた抽象絵画とは一線を画する世界観を確立していますし、暖かい色合いやその単純さは、極めて東洋的で「和の心」を感じます。

都心からは少し離れていますが、ゴールデンウィークを利用して訪れてみては如何でしょうか?

 

「天使の輪」を発明したのは誰か?

こんにちは。油絵科の関口です。

今日は「天使の輪」のお話をしようと思います。絵画のみならず、イラスト等にも描かれるこの天使の輪ですが、一体誰が最初に考えたんでしょうね?

天使の輪
レオナルド・ダ・ヴィンチ 「受胎告知(部分)」 1475?85年

今では一般的になっている「天使の輪」ですが、最初は頭の上ではなく、後ろから光が射してくる「後光」のような存在だったと思われます。後光という事になると、西洋にある天使だけでなく、東洋の仏像などにもよく使われています。洋の東西を問わず、偉い人(人ではないかもしれませんが)は神々しく輝いて、見るのも眩しいような存在だったという事でしょう。

イコンjpg

ヨーロッパではルネサンスよりも前に「イコン画」というものが数百年に渡って描かれてきました。イコン画というのは中世におけるキリスト教絵画で、金箔を背景に聖母子像が描かれるというのが一般的です。板に描かれるものが多いですが、モザイク画やフレスコ画等の壁画も存在します。空間や人物表現も平面的で、顔の表情もあまり豊かではありません。シンボルとしての意味合いが強く、聖人や聖母子などの後ろに円形の「後光」の様なものが描かれている事が多いようです。この時代には「天使の輪」はまだ存在していません。殆んどの作品が、顔の正面とか、やや斜めから描かれています。

 

ところがルネサンスになり、遠近法(パース)が発見されてからは様相が一変します。前後感が表現されるようになり、正面や斜めだけではなく、横顔や後ろ姿なども現れ始めます。

そんな中世から初期のルネサンスに移り変わる時には、面白い作品に出会う事があります。これは初期ルネサンスの巨匠ジオットの作品です。本人は至って真面目に描いたのでしょうが、冷静に見ると変ですよね?これではまるでコントでパイを顔にぶつけられた芸人さんみたいです(笑)。パースも全体では破綻しています。逆にちょっと現代的?と言えるかも知れません。

最後の晩餐1306?ジオット 「最後の晩餐」 1306年

 

さすがにこれではマズいと思ったか、この作品では後光が少し斜めになりかけています。もうちょいで「天使の輪」になりそうですけどね。でも、どちらかと言うと江戸時代の小判みたいです。

キリストの洗礼1304?6
ジオット 「キリストの洗礼」 1304?06年

 

そして、とうとう頭の上に乗っかる「天使の輪」スタイルが登場します。本当に天使だし、素晴らしい。さすが巨匠です。これぞ世紀の大発見!!パチパチパチ(拍手)。

夢のなかでヨアキムにアンナの受胎を知らせる天使1305~10
ジオット 「夢の中でヨアキムにアンナの受胎を知らせる天使」 1305?10年

 

さあ、これで一件落着。と思いきや、この作品より後に描かれたと思われるこの作品では、どういう訳か横顔の後ろに平面的なお皿型の「後光」というスタイルに戻ってしまいました。一体何故・・・???

荘厳の聖母1310
ジオット 「荘厳の聖母」 1310年

 

更に、同年代に描かれた別の画家ドゥッチョの作品です。(この人も当時の巨匠です)「後光」という設定には違和感を感じたのか、手前にいる後ろ姿(横顔)のキリストの弟子達には後光が描かれていません。どうして良いか分からなかったんでしょうね。「後ろにはテーブルがあって、晩餐のメニューも描かなくちゃいけないし、後光を描くとキリストの方からは顔が見えなくなってしまう筈だから、う?ん・・・無くしちゃえ!」みたいな感じ(笑)でしょうか?

最後の晩餐1308?11
ドゥッチョ 「最後の晩餐」 1308?11年

 

当時の価値観では、中世から続く「後光」というイメージが強かったのでしょうか?折角ジオットが「天使の輪」を発明したにもかかわらず、どういう訳か頭の上に乗っけるというスタイルは、以後100年以上も定着しませんでした。

マルティーニとアンジェリコ左 シモーネ・マルティーニ 「受胎告知(部分)」 1333年
右 フラ・アンジェリコ 「受胎告知(部分)」 1426年

 

中世から続く価値観は、絶対的なものであり、一個人の考えた事やリアリティをも飲み込んでしまう程、凄い力を持っていたのかもしれません。

ところが、ジオットが「天使の輪」を発明してからおよそ100年後、一人の天才が現れます。それがマサッチオです。名前を聞いてもピンと来ない人も多いと思いますが、結構凄い人なんですよ。マサッチオの作品は「楽園追放」「聖三位一体」が特に有名です。

楽園追放と聖三位一体左 マサッチオ 「楽園追放(部分)」 1426?27年
右 マサッチオ 「聖三位一体」 1425?28年

ちなみに「楽園追放」はフィレンツェにあるサンタ・マリア・デル・カルミネ大聖堂のブランカッチ礼拝堂に描かれた壁画の一部です。教科書とかでも見た事がある人も多いのではないでしょうか?
「聖三位一体」は、フィレンツェにあるサンタ・マリア・ノヴェッラ協会の壁に描かれた大きな壁画です。科学的でしっかりとしたパース(一点透視図法)を利用して、磔刑図の奥に広がるおおきな空間と、まるで手前に飛び出しているかのように描かれた骸骨(の台座)が、当時の人々に大きな衝撃を与えたようです。

 

さて、次にこのマサッチオの描いた、初期の作品を見て下さい。手前の天使の顔の奥にお皿がある、パイのコント型になっています。

サン・ジョヴェナーレ三連祭壇画1422
マサッチオ 「サン・ジョヴェナーレ三連祭壇画」 1422年

それが僅か数年後「聖三位一体」では、お皿を頭の上に乗っける、いわゆる「天使の輪」スタイルへと変貌を遂げています。サン・ジョヴェナーレ三連祭壇画では後光を描きながら、顔の前にお皿がある事に何か違和感を感じていた事でしょう。そしてある時ジオットの作品を見て「そうか!頭の上に乗っけてしまえば、全ての角度から違和感無く描けるじゃないか! 100年も前に発見されていたのに、何で皆こういう風に描かないんだ?」と思ったに違いありません。「天使の輪」が再発見された瞬間です。

聖三位一体(部分)「聖三位一体(部分)」

実際、このマサッチオ以降は頭の上に載せる「天使の輪」スタイルが大流行しています。レオナルドもボッティチェリもラファエロもこのスタイルを継承しています。遠近法の確立と共に、中世から続く絶対的な価値観が崩壊し、新たな時代(盛期ルネサンス)へと向かっていく事になります。マサッチオは僅か27年の生涯ですが、「天使の輪」を再発見し、新たな時代の扉を開けた夭折の天才と言えるでしょう。

同級生について(山口くん)

こんにちは。油絵科の関口です。さて、2月に森元先生のお話を書きましたが、今回はもう一人の芸大での同級生、山口晃さんについて(先日の講演会を聞き逃した、という人のためにも)書こうと思います。

12百貨店図新三越本店ブログ用
山口晃 作「百貨店圖 日本橋 新三越本店」2004年  © YAMAGUCHI Akira, Courtesy Mizuma Art Gallery

 

さて、皆さんは山口晃さんの事はご存知ですよね?テレビにもよく出演されていましたし、三越のポスターになったり、近年では横浜そごうで大々的な個展をやられていたので、ご覧になった方も多いと思います。仮に名前を知らなかったとしても、ネット等で作品を見た事がある人も多いのではないでしょうか?昨年は著書「ヘンな日本美術史」も受賞しましたし、ウチの学年では間違いなく一番の有名人です。それどころか、今や日本を代表する現代美術作家と言っても過言ではないと思います。

その山口さん…(うーん、僕には山口くんの方がシックリくるかな?以降は親しみを込めて「山口くん」と書かせてもらいますね)実は新美出身なんですよ。山口くんとは歳も同じで、1浪の時に同じクラスになりました。彼は群馬県出身。僕は新潟県出身。郷里は違いますが、同じ地方出身者という事で、最初の自己紹介の時に親近感を持ちました。

テレビでご覧になった方や、展覧会場で彼と会った事のある方は分かると思いますが、彼は基本的に低姿勢で、誰とでも敬語で話しています。実は浪人の時からずっとそうなんです。年上の人には勿論、同い年の僕等や年下の人にさえも敬語で話しますし、彼から乱暴な口調を聞いた事は一度たりともありません。話の切れ味は鋭いですけどね(笑)。有名になっても謙虚な姿勢は崩さず、決して威張る様な事もありません。そういうところは本当に素晴らしいと思います。僕は浪人の頃からずっと山口くんと呼んでいますが、芸大の同級生の皆からは「山ちゃん」と呼ばれて、親しまれていました。

彼の浪人時代の印象は「穏やかで冷静」「自分をしっかり持っているのでマイペース」「几帳面で真面目なのに面白い人」でした。当時僕等を受け持っていた先生2人は、どちらも情熱的で熱い人でしたので、先生方と正反対な山口くんは、人知れず苦労したんじゃないかと思います。大人しい性格から来るのか、先生には油絵の時に「もっと絵の具を乗せろ」と言われていた覚えがあります。浪人の時は何とか厚塗りにもチャレンジしていたようにも思いますが、大学に入ってからはちゃんと薄塗りに戻っていました。
そう言えば入試直前に先生のアドバイスで「途中まで描いていた絵をひっくり返して、それを下地にして描け」と言われて、実践していた事もありましたね。もう24?25年前の事ですが、今よりずっと狭かったアトリエの中で一緒に苦労した記憶は、鮮明に蘇ってきます。

004山口晃浪人時代2ブログ用
これは山口くんが浪人時代(1浪)に描いた人物油彩。本人は恥ずかしがっていましたが、結構上手に描けています。今となってはチョー貴重な一枚です。講演会では他にも数枚スライドで披露させてもらいました。

 

あと浪人時代に山口くんのスケッチブックを見せてもらった事があります。いわゆる落書きなんですが、それがまたすごいクオリティーなんです。その時点で既にプロ並みの腕前を見せており、現在の片鱗を垣間見る事が出来ました。

彼は1浪で造形大と多摩美に合格し、多摩美に進学する事になりました。一年間通ってから再受験し、見事芸大に合格。僕は2浪したので、大学でも同じ学年になります。

?大学に入ってからの山口くんは、既に自分のやりたいイメージをハッキリと持っていた様に思います。(実はお話を聞いてみると、色々と試行錯誤の連続だったそうで、紆余曲折の末に今に辿り着いている様です)キャンバスに油絵具で、日本画の様な線描と昔の日本の絵に出てくる様な雲も学生時代から描いていました。今から思うと、美術作家「山口晃」の原型は20歳前後で早くも完成されつつあったと思います。

あと、学年が幾つか上の会田誠さんと一緒にグループ展をやっていた事もありました。確か「コタツ派」とかいう名称だった様な…今程ブレイクする前に何回かギャラリーで見せてもらいました。

彼のアトリエには、いくつも並べたビールケースの上に畳が敷かれ、ちょっと変わった和室の様な空間を作って制作していました。

008卒業ブログ用
これは卒業制作のアルバムに載っている集合写真。山口くんは最前列一番右。僕や森元先生も写っています。(卒業以来会っていない人も結構います・・・懐かしいです)

 

ちなみに山口くんは、大学院を田口安男研究室(田口先生は既に退官されています)に入りました。僕も実は同じ研究室を希望していましたが、田口先生から「君は決して落ちる順番じゃないが、ウチはもっと上位の人が受けているし、留学生も取るから、第二志望の研究室に行って面接を受けてきなさい」と言われ、結果的には第二希望の技法材料研究室に入る事になりました。(当時の大学院は卒制の順位で決まる、と言われていました。研究室の定員は3人。山口くんはかなりトップの方で、もう一人の方も上位だったという事です。僕がもうちょっと上位だったら、山口くんと同じ研究室だったかもしれません)

009山口晃卒制カタログ作品ブログ用
これは卒業制作「深山寺参詣圖」の制作途中。卒業制作カタログにしか載っていないレアものです。完成した図版と比べてみると違いは歴然です。(色の違いは図版によるものかもしれません)

05深山寺ブログ用
山口晃?作「深山寺参詣圖」1994年   © YAMAGUCHI Akira, Courtesy Mizuma Art Gallery

 

森元さんの時にも書きましたが、僕の通っていた技法材料研究室は、油画の研究室とは離れたフロアにありましたので、やはり大学院の時の山口くんも殆ど知りません。

森元さん同様、山口くんも大学院を修了した後、助手を経験します。

そして2人はその後新美に講師として呼ばれ、半年間同じクラスを持つ事になります。森元さんと山口くんのクラスは「ドリームクラス」と言われ、油絵科の中での異色コンビとして注目を浴びていました。ちなみに、その時二人のクラスの成績はすごく良かったですよ。

その後、山口くんは新美に残る事なく、美術作家として大活躍する事になります。決してブレる事なく、同じスタンスでコツコツと仕事を続ける事で成功した一人です。皆さんも自分の好きな事をやり続け、人々の心に残る美術作家を目指して頑張って下さい。