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2014年度合格実績と新美3つのメリット

新宿美術学院 三上です。
関東ではさくらの季節も終わり、ハナミズキが咲く季節となりました。
新宿美術学院は今年度も芸大美大総合格者数 全国一位でした。
3年連続で総合格者数1位です。

新美が芸大美大合格者 全国1位 の3つの理由を紹介します。
新美の特徴は、美大受験に特化した予備校だということ。
美術に対し専門的な知識・情報をもつことで他の予備校にはない3つのメリットがあります。

◎1年間で大学へ
【1年間で合格するためのカリキュラム】
最新の入試情報をもとに4月入学時の学生実技レベルを考慮し、カリキュラムを作成しています。個人能力を考慮することで、1年間の実技学習・指導がスムーズになります。また、入試までに学生全員が合格レベルに到達することが可能になるシステムです。
また、一人一人丁寧に講評・指導するスタイルが新美スタイルです。
1年後には芸大生・美大生。それが新美のコンセプトです。

◎個性を大切にすることが美術受験指導の基本
【学生の個性を大切にする面談】
面談をしない美術の指導は本人の個性を潰していきます。面談をすることで学生の個性を残しつつ芸大・美大に導くことが出来ます。新美は個を大切にする予備校です。

◎私大合格は学科ポイント
【美大受験に特化した学科対策】
ベテラン学科講師が私立美大各大学の傾向に合わせ授業を行っています。また、多摩美大小論文対策など新美ならではの学科対策ゼミが全国1位の合格数を支えています。

無料体験授業から新美の指導を体験して、新美で受験をスタートしよう!!

「天使の輪」を発明したのは誰か?

こんにちは。油絵科の関口です。

今日は「天使の輪」のお話をしようと思います。絵画のみならず、イラスト等にも描かれるこの天使の輪ですが、一体誰が最初に考えたんでしょうね?

天使の輪
レオナルド・ダ・ヴィンチ 「受胎告知(部分)」 1475?85年

今では一般的になっている「天使の輪」ですが、最初は頭の上ではなく、後ろから光が射してくる「後光」のような存在だったと思われます。後光という事になると、西洋にある天使だけでなく、東洋の仏像などにもよく使われています。洋の東西を問わず、偉い人(人ではないかもしれませんが)は神々しく輝いて、見るのも眩しいような存在だったという事でしょう。

イコンjpg

ヨーロッパではルネサンスよりも前に「イコン画」というものが数百年に渡って描かれてきました。イコン画というのは中世におけるキリスト教絵画で、金箔を背景に聖母子像が描かれるというのが一般的です。板に描かれるものが多いですが、モザイク画やフレスコ画等の壁画も存在します。空間や人物表現も平面的で、顔の表情もあまり豊かではありません。シンボルとしての意味合いが強く、聖人や聖母子などの後ろに円形の「後光」の様なものが描かれている事が多いようです。この時代には「天使の輪」はまだ存在していません。殆んどの作品が、顔の正面とか、やや斜めから描かれています。

 

ところがルネサンスになり、遠近法(パース)が発見されてからは様相が一変します。前後感が表現されるようになり、正面や斜めだけではなく、横顔や後ろ姿なども現れ始めます。

そんな中世から初期のルネサンスに移り変わる時には、面白い作品に出会う事があります。これは初期ルネサンスの巨匠ジオットの作品です。本人は至って真面目に描いたのでしょうが、冷静に見ると変ですよね?これではまるでコントでパイを顔にぶつけられた芸人さんみたいです(笑)。パースも全体では破綻しています。逆にちょっと現代的?と言えるかも知れません。

最後の晩餐1306?ジオット 「最後の晩餐」 1306年

 

さすがにこれではマズいと思ったか、この作品では後光が少し斜めになりかけています。もうちょいで「天使の輪」になりそうですけどね。でも、どちらかと言うと江戸時代の小判みたいです。

キリストの洗礼1304?6
ジオット 「キリストの洗礼」 1304?06年

 

そして、とうとう頭の上に乗っかる「天使の輪」スタイルが登場します。本当に天使だし、素晴らしい。さすが巨匠です。これぞ世紀の大発見!!パチパチパチ(拍手)。

夢のなかでヨアキムにアンナの受胎を知らせる天使1305~10
ジオット 「夢の中でヨアキムにアンナの受胎を知らせる天使」 1305?10年

 

さあ、これで一件落着。と思いきや、この作品より後に描かれたと思われるこの作品では、どういう訳か横顔の後ろに平面的なお皿型の「後光」というスタイルに戻ってしまいました。一体何故・・・???

荘厳の聖母1310
ジオット 「荘厳の聖母」 1310年

 

更に、同年代に描かれた別の画家ドゥッチョの作品です。(この人も当時の巨匠です)「後光」という設定には違和感を感じたのか、手前にいる後ろ姿(横顔)のキリストの弟子達には後光が描かれていません。どうして良いか分からなかったんでしょうね。「後ろにはテーブルがあって、晩餐のメニューも描かなくちゃいけないし、後光を描くとキリストの方からは顔が見えなくなってしまう筈だから、う?ん・・・無くしちゃえ!」みたいな感じ(笑)でしょうか?

最後の晩餐1308?11
ドゥッチョ 「最後の晩餐」 1308?11年

 

当時の価値観では、中世から続く「後光」というイメージが強かったのでしょうか?折角ジオットが「天使の輪」を発明したにもかかわらず、どういう訳か頭の上に乗っけるというスタイルは、以後100年以上も定着しませんでした。

マルティーニとアンジェリコ左 シモーネ・マルティーニ 「受胎告知(部分)」 1333年
右 フラ・アンジェリコ 「受胎告知(部分)」 1426年

 

中世から続く価値観は、絶対的なものであり、一個人の考えた事やリアリティをも飲み込んでしまう程、凄い力を持っていたのかもしれません。

ところが、ジオットが「天使の輪」を発明してからおよそ100年後、一人の天才が現れます。それがマサッチオです。名前を聞いてもピンと来ない人も多いと思いますが、結構凄い人なんですよ。マサッチオの作品は「楽園追放」「聖三位一体」が特に有名です。

楽園追放と聖三位一体左 マサッチオ 「楽園追放(部分)」 1426?27年
右 マサッチオ 「聖三位一体」 1425?28年

ちなみに「楽園追放」はフィレンツェにあるサンタ・マリア・デル・カルミネ大聖堂のブランカッチ礼拝堂に描かれた壁画の一部です。教科書とかでも見た事がある人も多いのではないでしょうか?
「聖三位一体」は、フィレンツェにあるサンタ・マリア・ノヴェッラ協会の壁に描かれた大きな壁画です。科学的でしっかりとしたパース(一点透視図法)を利用して、磔刑図の奥に広がるおおきな空間と、まるで手前に飛び出しているかのように描かれた骸骨(の台座)が、当時の人々に大きな衝撃を与えたようです。

 

さて、次にこのマサッチオの描いた、初期の作品を見て下さい。手前の天使の顔の奥にお皿がある、パイのコント型になっています。

サン・ジョヴェナーレ三連祭壇画1422
マサッチオ 「サン・ジョヴェナーレ三連祭壇画」 1422年

それが僅か数年後「聖三位一体」では、お皿を頭の上に乗っける、いわゆる「天使の輪」スタイルへと変貌を遂げています。サン・ジョヴェナーレ三連祭壇画では後光を描きながら、顔の前にお皿がある事に何か違和感を感じていた事でしょう。そしてある時ジオットの作品を見て「そうか!頭の上に乗っけてしまえば、全ての角度から違和感無く描けるじゃないか! 100年も前に発見されていたのに、何で皆こういう風に描かないんだ?」と思ったに違いありません。「天使の輪」が再発見された瞬間です。

聖三位一体(部分)「聖三位一体(部分)」

実際、このマサッチオ以降は頭の上に載せる「天使の輪」スタイルが大流行しています。レオナルドもボッティチェリもラファエロもこのスタイルを継承しています。遠近法の確立と共に、中世から続く絶対的な価値観が崩壊し、新たな時代(盛期ルネサンス)へと向かっていく事になります。マサッチオは僅か27年の生涯ですが、「天使の輪」を再発見し、新たな時代の扉を開けた夭折の天才と言えるでしょう。

TDC展2014

デザイン科総合コースの滝口です。いよいよ’14年度新宿美術学院の授業が12日よりスタートしました。
12日のガイダンスでは、新しい学生の人たちと講師とも顔を合わせ、来年の受験と合格に向けて1年間共に頑張っていきましょう!!

今回は、そんなスタートの中、総合コースの学生講師で東京芸大のデザイン科4年生である木下真彩先生が、TDC賞(タイプディレクターズクラブ)と日本タイポグラフィー年鑑にそれぞれ入選したのでお知らせしたいと思います。

作品は昨年度にこのブログで、総合コースから実際に木下先生が紹介した「伝統とデザイン」での東京芸大デザイン科の授業作品でした。
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全体で見るとちょっと細々として何が書いてあるのか分からない感じですが、思い切って拡大してみると・・・

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実は、1つ1つ伝統的な日本家屋で文字が出来ています。
しかも松などの木々や道石まであって、一文字一文字大変凝っていますね。
そして、文字は西洋的な透視図法ではなく、古典日本画に見られるような遠近法を用いない俯瞰的な建物の描き方を用いています。

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一見すると、何かコンピュータで打ち込んだ文字の集積のように見えますが、

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近くから見ると建物で出来た文字になっているので、文字として読んだり、建物の絵画的な世界を楽しんでしまったりと、色んな視点を行き来できて、本当に楽しいです。

「TDC展2014」は現在銀座のデザイン系ギャラリーで有名なggg(ギンザ・グラフィック・ギャラリー)で開催されています。4月28日までです。
多くのグラフィックデザインに触れられるので、デザイン科受験生には大変お勧めです!!
http://www.dnp.co.jp/gallery/ggg/
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デザイン科総合コースでは、普段の指導を専門分野別に分かれて教えています。
木下先生は平面構成を主に教えてもらっています。
こういうグラフィック感覚や専門的なデザインの考え方も、実際の実技平面で活かせるように、予備校的な受験作品の視点だけではなく、もっと色々なデザインの世界を通じて指導にあたっています。

展示会場の入場について

4月8日(火)合格者作品展示会の入場は、午前中よりアトリエ清掃のため入場が制限されます。誠に申し訳ありませんが、ご来場の際は1F 受付へお願いします。

同級生について(山口くん)

こんにちは。油絵科の関口です。さて、2月に森元先生のお話を書きましたが、今回はもう一人の芸大での同級生、山口晃さんについて(先日の講演会を聞き逃した、という人のためにも)書こうと思います。

12百貨店図新三越本店ブログ用
山口晃 作「百貨店圖 日本橋 新三越本店」2004年  © YAMAGUCHI Akira, Courtesy Mizuma Art Gallery

 

さて、皆さんは山口晃さんの事はご存知ですよね?テレビにもよく出演されていましたし、三越のポスターになったり、近年では横浜そごうで大々的な個展をやられていたので、ご覧になった方も多いと思います。仮に名前を知らなかったとしても、ネット等で作品を見た事がある人も多いのではないでしょうか?昨年は著書「ヘンな日本美術史」も受賞しましたし、ウチの学年では間違いなく一番の有名人です。それどころか、今や日本を代表する現代美術作家と言っても過言ではないと思います。

その山口さん…(うーん、僕には山口くんの方がシックリくるかな?以降は親しみを込めて「山口くん」と書かせてもらいますね)実は新美出身なんですよ。山口くんとは歳も同じで、1浪の時に同じクラスになりました。彼は群馬県出身。僕は新潟県出身。郷里は違いますが、同じ地方出身者という事で、最初の自己紹介の時に親近感を持ちました。

テレビでご覧になった方や、展覧会場で彼と会った事のある方は分かると思いますが、彼は基本的に低姿勢で、誰とでも敬語で話しています。実は浪人の時からずっとそうなんです。年上の人には勿論、同い年の僕等や年下の人にさえも敬語で話しますし、彼から乱暴な口調を聞いた事は一度たりともありません。話の切れ味は鋭いですけどね(笑)。有名になっても謙虚な姿勢は崩さず、決して威張る様な事もありません。そういうところは本当に素晴らしいと思います。僕は浪人の頃からずっと山口くんと呼んでいますが、芸大の同級生の皆からは「山ちゃん」と呼ばれて、親しまれていました。

彼の浪人時代の印象は「穏やかで冷静」「自分をしっかり持っているのでマイペース」「几帳面で真面目なのに面白い人」でした。当時僕等を受け持っていた先生2人は、どちらも情熱的で熱い人でしたので、先生方と正反対な山口くんは、人知れず苦労したんじゃないかと思います。大人しい性格から来るのか、先生には油絵の時に「もっと絵の具を乗せろ」と言われていた覚えがあります。浪人の時は何とか厚塗りにもチャレンジしていたようにも思いますが、大学に入ってからはちゃんと薄塗りに戻っていました。
そう言えば入試直前に先生のアドバイスで「途中まで描いていた絵をひっくり返して、それを下地にして描け」と言われて、実践していた事もありましたね。もう24?25年前の事ですが、今よりずっと狭かったアトリエの中で一緒に苦労した記憶は、鮮明に蘇ってきます。

004山口晃浪人時代2ブログ用
これは山口くんが浪人時代(1浪)に描いた人物油彩。本人は恥ずかしがっていましたが、結構上手に描けています。今となってはチョー貴重な一枚です。講演会では他にも数枚スライドで披露させてもらいました。

 

あと浪人時代に山口くんのスケッチブックを見せてもらった事があります。いわゆる落書きなんですが、それがまたすごいクオリティーなんです。その時点で既にプロ並みの腕前を見せており、現在の片鱗を垣間見る事が出来ました。

彼は1浪で造形大と多摩美に合格し、多摩美に進学する事になりました。一年間通ってから再受験し、見事芸大に合格。僕は2浪したので、大学でも同じ学年になります。

?大学に入ってからの山口くんは、既に自分のやりたいイメージをハッキリと持っていた様に思います。(実はお話を聞いてみると、色々と試行錯誤の連続だったそうで、紆余曲折の末に今に辿り着いている様です)キャンバスに油絵具で、日本画の様な線描と昔の日本の絵に出てくる様な雲も学生時代から描いていました。今から思うと、美術作家「山口晃」の原型は20歳前後で早くも完成されつつあったと思います。

あと、学年が幾つか上の会田誠さんと一緒にグループ展をやっていた事もありました。確か「コタツ派」とかいう名称だった様な…今程ブレイクする前に何回かギャラリーで見せてもらいました。

彼のアトリエには、いくつも並べたビールケースの上に畳が敷かれ、ちょっと変わった和室の様な空間を作って制作していました。

008卒業ブログ用
これは卒業制作のアルバムに載っている集合写真。山口くんは最前列一番右。僕や森元先生も写っています。(卒業以来会っていない人も結構います・・・懐かしいです)

 

ちなみに山口くんは、大学院を田口安男研究室(田口先生は既に退官されています)に入りました。僕も実は同じ研究室を希望していましたが、田口先生から「君は決して落ちる順番じゃないが、ウチはもっと上位の人が受けているし、留学生も取るから、第二志望の研究室に行って面接を受けてきなさい」と言われ、結果的には第二希望の技法材料研究室に入る事になりました。(当時の大学院は卒制の順位で決まる、と言われていました。研究室の定員は3人。山口くんはかなりトップの方で、もう一人の方も上位だったという事です。僕がもうちょっと上位だったら、山口くんと同じ研究室だったかもしれません)

009山口晃卒制カタログ作品ブログ用
これは卒業制作「深山寺参詣圖」の制作途中。卒業制作カタログにしか載っていないレアものです。完成した図版と比べてみると違いは歴然です。(色の違いは図版によるものかもしれません)

05深山寺ブログ用
山口晃?作「深山寺参詣圖」1994年   © YAMAGUCHI Akira, Courtesy Mizuma Art Gallery

 

森元さんの時にも書きましたが、僕の通っていた技法材料研究室は、油画の研究室とは離れたフロアにありましたので、やはり大学院の時の山口くんも殆ど知りません。

森元さん同様、山口くんも大学院を修了した後、助手を経験します。

そして2人はその後新美に講師として呼ばれ、半年間同じクラスを持つ事になります。森元さんと山口くんのクラスは「ドリームクラス」と言われ、油絵科の中での異色コンビとして注目を浴びていました。ちなみに、その時二人のクラスの成績はすごく良かったですよ。

その後、山口くんは新美に残る事なく、美術作家として大活躍する事になります。決してブレる事なく、同じスタンスでコツコツと仕事を続ける事で成功した一人です。皆さんも自分の好きな事をやり続け、人々の心に残る美術作家を目指して頑張って下さい。