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「小論文」の話し

 

こんにちは、先端科です。ここ最近は涼しさを通り越して朝晩は寒さを感じるようになってきました。体調には十分気をつけながら、引き続き頑張っていきましょう。

さて、今回は「小論文」についての話しを簡単にしたいと思います。以前もお話ししましたが、先端科の1次試験は「素描」と「小論文」とから選択することができます。

素描と小論文の共通点?

もしかすると、いわゆる「実技系」「制作系」を目指す人は素描を選択し、たとえばキュレーター(展覧会やイベントなどを企画したりするような仕事)や研究者のような「理論系」を目指す人が小論文を選択するのかと思っている人もいるかもしれませんが、必ずしもそうではありません。そもそも、「実技系と理論系」といったような分け方自体便宜的なものにすぎませんし、むしろそこを分けて考えないことが先端科の特徴と言ってもいいかと思います。そう考えると、モチーフを描写したり、モチーフの新しい見方や側面を発見したり、モチーフに対して自分なりの疑問を見つけたりする力を問われると言う意味では、小論文の試験も素描の試験と共通している部分がたくさんあることが見えてきます。

 

「小論文は意見文ですか?」

新美の先端科では、基本的に過去の入試の出題形式に照らしながら、課題文(既存の評論文や批評文、小説等)に対してその人なりの考えを述べてもらうような問題に繰り返し取り組んでいきます。以前生徒に「小論文は意見文ですか?」というような質問をされて、「意見文とは違います」というようにこたえたことがありました。それは課題文を読んで自分なりの考えを述べるというのが、必ずしも課題文の中で言われていることに反対か賛成かを述べることではないということです。なぜなら課題文への応答の仕方は多様であるはずで、賛成と反対の2つだけではないからです。ここでは課題文を正確に読解する力はもちろん大切ですが、課題文の中のアイデアから自分なりに発想したり展開したり、あるいは大胆に読み替えたりする力も求められます。先端科の小論文が「自由」だと言われることがある理由のひとつはここにあるかもしれません。

自分が知っていることから出発する

さて、課題文が与えられるとしても、もちろん課題文はモチーフではありません。いざ実際に自分の考えを書こうとしたとき、まずは何か具体的な対象を見つけなければなりません。かといって目の前に何かあるわけではなく、与えられているのは自分の身体(と鉛筆と消しゴム)だけです。そうすると書くべきモチーフは、自分がこれまで見たり聞いたり体験したりした事柄、つまり広い意味で自分の「経験」の中から探し出さなければなりません。言い換えれば、まずはあなたが既に知っている事柄から出発しなければならないということです。しかしそれでは「自分の事」を書いているだけの「私的」で「主観的」な文章になってしまって、はたして小「論文」と言えるのか?などと心配になってしまうかもしれません。

 

文章を書くことで新しく発見する

確かに本人が既に知っていることだけしか書いていない文章は小論文としておもしろいとは言えそうにありません。なぜかと言うと、そういう文章はなによりもまず書いている本人にとって何か新しい発見がないからです。逆に、書き手が書きながら何か新しく発見した瞬間というのは、読み手にもかなり正確に伝わるものだし、おもしろい文章にはそのような書き手の発見の瞬間がいくつもあります。そしてそのような発見の積み重ねこそが文章を展開していく原動力になります。

 

知っていることから知らないことへ

「新しい発見」というと大げさに聞こえますが、粘り強く考えることを怠らなければ、それほど難しいことではありません。あたりまえのことですが、個人的な経験といっても、普通私たちはそれを文章や書き言葉のかたちで経験しているわけではありません。そういう意味では、まずは自分の経験を文章にするという事自体が、それまで自分が経験したことのないものと出会う経験になるわけです。絵では描きかたによってモチーフのかたちが変わるように、文章でも書き方によって物事のかたちがかわります。自分がよく知っていると思っていた経験も、文章にしてみると自分が知らないかたちをして現れるということがよくあります。このような初歩的な段階にも、新しい発見のきっかけはあります。また、これも考えてみればあたりまえのことですが、いくらそれが「個人的な」経験だと思っていても、そこには自分ではない様々な人やモノや出来事が介入しているはずです。文章を書くことは、この当たり前の事実に出会い直すことでもあります。

 

「自分の言葉で書く」?

加えて、「言葉」はどんなに頑張っても借り物です。学校の作文の授業などでよく「自分の言葉で書きなさい」と教えられますが、それは「言葉を新しくつくりなさい」という意味ではないわけです。言葉が借り物だという事が具体的にどういうことかというと、自分が書いた文章の中に、自分が言いたい事とは別の意味やイメージがいつでも流れ込んでくるという事です。言葉が常に誤解される可能性をともなっているのはそのためです。「誤解」と言ってしまうと否定的な感じがしてしまいますが、文章を書く事で物事を考える時に、言葉のこうした性質とむしろ積極的に取り組んでいくことも必要になります。なぜなら、実はそれは読み手のことを考えることだからです。自分が書いた文章を読み手の側にたって丁寧に読んでみる事で、書いているときには気づいていなかったモチーフやテーマが発見できることがあります。

 

?客観的であるとはどういうことか?

「客観的」な文章を書こうとかまえると、実はそこまで具体的に知らなかったり、興味がそれほどない物事を無理矢理書いてしまうことがよくあります。また、なんとなく社会的に共有されている考え方や論調に無意識に頼ってしまったりということもあります。そうするといわゆる「一般論」に近づいていってしまいます。そうならないためにも、自分が書いた事をよく読むことが重要です。「客観的」になるということは、まずは自分が自分の「読み手」になり、自分が知っていると思っている事のなかに、実は自分が知らなかったりそこまでつっこんで考えてこなかったことを発見していく作業を積み重ねることです。どんなにささやかな発見であっても、それを見逃したり簡単に捨ててしまわずに、小さな発見を積み重ねていく事が大切です。

 

さて、今回は「小論文」についてというよりは文章一般についての話しになってしまったかもしれません。ただ、ふだんの先端科でもまずは「小論文」という形式を無理に意識せずに、「自分の言葉で文章を書く」「文章を書く事で考える」ということがどういうことなのかということを、授業を通して考えています。もし先端科の「小論文」に対してかまえてしまっている人の印象を少しでもほぐす事ができればいいなと思ってここまで書いてきたつもりです。最後まで読んでいただいてありがとうございます。では、次回の更新をお楽しみに。