日別アーカイブ: 2015年6月12日

先端科_食べられないお弁当

こんにちは、先端科の冨樫です。

忘れないうちに宣伝をひとつ。今月21日(日)に、プレ夏期講習会があります。「はじめての総合実技対策」ということで、総合実技を意識しながら、WSに近い課題を用意しています。参加費無料ですのでぜひ。先端科を受験しようか迷っている人も、こういう機会に雰囲気をつかみに来てみるといいと思います。

ところで、先端科の1次試験は、素描か小論文、どちらか得意な方を選択することが出来ます。デッサンにしろ小論文にしろ、まずは対象をよく見ることが重要だとよくいわれますね。でも、ものを「見る」ってどういうことでしょう?ましてや、「よく見る」って、どういうことなのでしょう。

僕自身は普段、映像メディアをつかって作品をつくることが多いので、今回はすこし遠回りをして、映像ってなんなのかという視点から、「よく見る」ことについて考えてみたいと思います。

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ここで唐突ですが、みなさんは「みにくいアヒルの子」ってご存知でしょうか?

といっても、かの有名なアンデルセンの童話ではなく、96年にフジテレビで放映された岸谷五朗主演のドラマの方です。96年というと、予備校生のみなさんの中にはまだ生まれてもいない人もいますから、リアルタイムで観ている人はいないかもしれません。かく言う僕も、たまたま実家にあったVHSで観たのでした。岸谷五朗演じるちょっぴり破天荒な「ガースケ先生」と、それぞれに悩みをかかえた小学生たちとの交流を描いたドラマで、涙無しには観られないシーンのオンパレードです。

なかでも僕がほとんどトラウマ的な記憶になっているほどよく覚えているシーンがあります。(僕自身小学生だった頃の記憶を頼りに思い出しているので、細部が間違っている可能性大です。)第6話は「日本一のお弁当」という回なんですが、ガースケ先生が、お母さんのいない「優子」ちゃんに、お弁当を作ってあげるんですね。料理の苦手なガースケ先生は、七転八倒しながら、それでもなんとか頑張って工夫をこらしたお弁当を完成させます。翌日、河原で写生大会のあとのお弁当の時間です。優子ちゃんはガースケ先生が作ってきてくれたお弁当の蓋を期待と不安の入り交じった気持ちで開けます。

するとどうでしょう、弁当箱一杯にびっしり敷き詰められたご飯の真ん中に、紅一点、梅干しがひとつ乗っかっています。見事なまでにシンプルな、これぞ日の丸弁当です!(もちろん、それが優子ちゃんをどれほど落胆させたかはもはや言うまでもないでしょう。)優子ちゃんはあんまりかなしくって、がっかりして、怒って、そのお弁当を河原に投げ捨ててしまいます。投げられたお弁当は逆さまに河原に転がって、白いご飯はもう草まみれ、泥まみれです。

さて、前置きが長くなってしまいましたが、もう一度だけ、河原に転がったガースケ先生のお弁当をよく観てみましょう。ひっくり返ったお弁当には、ガースケ先生が苦労して作ったタコさんウインナーや、卵焼きやなんかのおかずが、びっしり並んでいます。もうお分かりですね?ガースケ先生は、おかずをご飯の下に隠しておいたのです。先生は、喜びを倍にしようと思って、工夫を凝らしたつもりだったのですね。喜びの前に、がっかりのワンクッションをひとつ置くことで、お弁当の中身そのものは変わらないにもかかわらず、喜びはずっと大きくなります。でも、優子ちゃんには惜しくもそれが伝わらなかった。

哀しい場面です。ガースケ先生の愛情は、伝わらなかった。無駄になってしまった。でも、ほんとうにそうでしょうか。お弁当は埃まみれで、たぶんもう食べられないでしょう。でも、食べられなくなったとしても、優子ちゃんは、ひっくり返ったお弁当の、ぎっしりつまったおかずを「見る」ことでなら、ガースケ先生の愛情を感じ取ることができます。そしてここがポイントです。あたりまえのことですが、ドラマを見ている私たち観客は、優子ちゃんのように、お弁当を実際に食べることはできません。しかしいま、お弁当は、優子ちゃんにとっても食べられなくなってしまいました。すると何が起きるでしょうか。食べられないそのお弁当をただ見つめることしかできない優子ちゃんの眼差しが、このとき、観客の眼差しと等しくなっていることがわかるでしょうか。こうして、私たち観客は、優子ちゃんと「同じように」、ガースケ先生の愛情を感じ取ることができました。

簡単にまとめてみましょう。目の前のものをよく見もしないで決めつける優子ちゃんが悪いのだ、という非難は間違ってはいないでしょう。ただ、見事な日の丸の裏に、おかずが隠してあるなんてことを見抜けるかと言われると、もし僕だったらと考えると、まったく自信がありません。よほどの好奇心か、ひねくれた根性がなければ、そんなこと思いつきもしないと思うのですが、みなさんはどうでしょう?もし観客である自分が優子ちゃんの立場だったにしても、やはりお弁当は食べることができないものになってしまっただろうと思います。何が言いたいのかというと、つまり、ガースケ先生の愛情は、「食べる」ことではなく「見る」ことによってしか伝えることができないものなのではないかということです。なぜなら、映像は、食べることができないからです。映像で食べることも、映像を食べることもできません。ただし、映像は、「見る」ことができるのです。

さて、最後にもうひとつだけ。「見る」ための手段といえば、映像の他にも、たとえば絵画がありますね。ちょっと考えてみて下さい。今日話した<ガースケ先生の愛情>を、絵で描くことはできるでしょうか?

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